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それは静かに忍び寄る

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この耳障りな雑音はなんだろう?
 ぼんやりとした意識の中、アンナはゆっくりと考えた。
 今住んでいるのは小さな町。そこに借りた部屋には大きな窓があって、窓辺からは下の通りが見渡せる。太陽の位置から午後を少しまわったころだと知り、膝の上にのっていた裁縫箱に視線を落した。手に持った服の色は……夫が好んできる色。どうやら自分は、繕い物の最中にぼんやりとしてしまったらしい。

「あぶない、あぶない……」

 握られたままの縫い針を針山にもどし、アンナはため息をはいた。
 今回は少し長く町に滞在している。そのせいで気が弛んでいるのだろうか。思い返せば、人間牧場を逃亡してからというもの、一つの町に長く滞在したことはない。例外と言えば――したときぐらいだろうか。
 記憶にひっかかりを感じて、アンナは唇に手を当てる。
 何をしたとき、長く町に滞在したのだろうか。滞在したのは確かだ。覚えている。何か大切な用事があって、旅を続けられなくなった。だからクラトスと相談して、パルマコスタのマーテル教会に……と順序だてて記憶を探る。が、行き当たる記憶がない。
 それにしても、さっきから聞こえている耳障りな雑音はなんだろうか。これのせいで集中することができない。
 思い出せないことを雑音のせいにして、アンナが音の出所をさがすと、それはすぐに見つかった。
 足下にうずくまっている小さな塊。その揺れる鳶色の髪に、アンナは慌てて立ち上がった。

「ロイド!?」

 裁縫箱も繕い途中の服も投げ出して、泣きじゃくる我が子を抱き上げる。赤く染まった小さな手と、足下に転がったハサミに、何が起こったのかをアンナは悟った。

「ロイド、ハサミで手を切ってしまったのね。ダメでしょう?
 ハサミは危ないって、いつも……」

 いつも、教えていた。
 ロイドの服はアンナが作る。だからロイドはアンナが繕いものを始めると傍らにきて、その作業を覗く習慣があった。アンナ手際に目を輝かせて、自分も挑戦しようとロイドが針やハサミに手を伸ばすのを毎回見張っていたのに、今日は見逃してしまった。それどころかロイドの存在を――忘れていた。
 自分の生きた証で、愛する男との間に生まれた大切な子供。
 何故、見逃してしまったのか。何故、気が付かなかったのか。何故、ロイドの存在を忘れていたのか。
 浮かんだ答えに、アンナはぎくりと背筋を伸ばした。

『エクスフィアの侵食』

 人間牧場で埋め込まれた石は、普通の石ではない。クラトスの説明によると、人の負の感情に刺激されて目覚める石は、いつか宿主を殺す。アンナが埋め込まれた石は特殊で、普通なら数日で行われれる寄生を十数年かけて行うものだった。だからこそ牧場を逃亡してから数年、夫と子供をもうけ、その子供が言葉を覚えるほどに成長するまで自分は生きてこれた。平穏で静かな幸せが続いていたのですっかり忘れかけていたが、やはり避けられないらしい。
 とにかく火が付いたように泣くロイドをなだめようと、アンナは抱き上げた小さな体を揺らす。子守唄を歌ってみたが、効果はない。

「ロイド、どうかしたのか?」

 泣き止まない子供の声に、ドアを開けて夫が部屋に入ってくる。
 それから泣き続ける息子と、あやす妻を見て眉を寄せた。

「何をしている」

 どこかぼんやりとしたアンナの様子を不審に思いながら、クラトスはロイドをアンナから奪い取った。

「ロイド、泣くな。おまえは男だろう?
 すぐに手当をしよう」

 アンナがしたように軽くロイドを揺らし、あやす。自分の顔を覗き込む父親の瞳に、ロイドは唇を引き結んで涙を堪えた。
 言葉通りすぐに手当をしようと部屋を出ていくクラトスを見送り、アンナは打ちのめされる。自分は、『手当をしよう』ということすら思い浮かばなかった。
 子供の存在を忘れる。血が出ていても手当をしようという発想がわいてこない。……それはとても恐ろしい事だ。

「アンナ、薬箱はどこにしまってあるのだ?」

 下の階から聞こえる夫の声に、今度こそアンナは覚醒した。背筋を伸ばし、慌てて二人を追いかける。
『エクスフィアの侵食』は恐ろしい。が、完全に目覚めているわけではない。まだ大丈夫。まだ自分は家族と共に生きていられる。そう自分に言い聞かせ、アンナはわきあがる不安に蓋をしめた。
作品名:それは静かに忍び寄る 作家名:なしえ