水泡の呪歌
眼前には気を失った愛し子と、それを守るように立つ獣……ノイシュの背中は血で赤く染まっている。自分を見つめる丸い目が怯えたように揺れるのを見て、アンナは己のしたことを悟った。
「アンナ……」
名を呼ぶ愛しい男の声に、アンナはゆっくりと振り返る。
鳶色の髪と漆黒の外套を血で赤く染め、手には長剣をにぎり立つクラトス。その唇はかすかに震えていた。
それからアンナは己の手に視線を落す。視線のさきにあるものは……追手の死体。
しかし、それよりもアンナが気をとられたのは……自分の腕だった。いつもの白い自分の手ではない。醜く何倍にも膨れあがった腕と、長く鋭い爪。人ではない色、大きさ、形。自分の顔が見れないのはせめてもの救いだろうか。俯いているはずなのに、いつも肩から流れおちてくる髪がない。おそらく、顔もひどい状態になっているのだろう。
だから夫は剣を抜き、自分の前に立っているのだと……ようやく答えに辿り着いた。
小さな幸せの終焉。長いようで短い逃亡生活。ついに追跡者に捕まり、エクスフィアをはがされた自分。その直後を襲った言い様のない混乱。破壊衝動。それを物語る醜い腕、覚えのない死体。
誰かの命を奪ってしまった。
しかし、そんなことよりも強く感じる絶望。
「……殺して」
愛しいはずの我が子に、アンナは食指が動くのを感じた。
「クラトス、殺して。お願い、殺して。私を、殺して」
自分でもわかる、感じる。自分はもう、元には戻れないと。
ノイシュの鳴き声に正気を取り戻せはしたが、自分を襲う狂気は収まる事を知らない。アンナの中で渦巻いて、今も体の自由を奪おうと猛威をふるっている。このままでは本当に――
「アンナ……」
名を呼ぶ掠れた声に、アンナは身を縮めた。本当は、今の自分の姿をクラトスにさらす事さえ厭わしい。けれど、これは逃れる事はできない。彼に願わなくては、いったい誰に願えるというのか。
「お願い、殺し……」
「できるはずがないっ!」
愛する妻の望みとはいえ、自分の手にかけることなど。
間をおかない拒絶の言葉に、クラトスの心を知りつつもアンナは残酷な願いを囁く。
「私を愛しているのなら」
あなたの手で殺してほしい。それならば、少しは救われる。
追跡者の思惑通りになるのは嫌。他の人間の手にかかるのも嫌。
息子を殺すのも、夫を殺すのも嫌。
だったら……最後に選べる道は一つしかない。
「こんな姿になっても優しいのね、クラトス」
「私はおまえの姿を愛したわけではないぞ」
「でも、今はその優しさが私を苦しめるの」
残酷な願いに、残酷な言葉を重ねた。そうすることでクラトスを傷つけると知りながら。現にクラトスは、妻の言葉にショックを受けたように唇を震わせている。
「お願いクラトス。もうすぐ私でいられなくなる……その前に……」
いまだに迷いを振り切れない夫の姿に、アンナは確信した。
クラトスはいつもアンナの願いを聞き入れてくれる。今度もきっと、大丈夫だ。迷っているが、最後には選んでくれる。
その手で自分を殺してくれる。
安心から薄れゆく意識の中で、アンナはクラトスに謝罪した。
本当はもう一つ、方法があった。
自分の中で暴れる狂気は、自分自身を滅ぼす事もできる。けれどアンナはクラトスの手にかかることを望んだ。
そうすることで、クラトスが己を攻めると知りながら。
そうすることで、クラトスの中に一生残れるのだから。
不器用で誠実な彼は、アンナを忘れる事を絶対に赦さないだろう。
だから、自分はクラトスの中に生きるのだ、と。
――――――傷つけてごめんなさい。
優しくできなくて、ごめんなさい――――――
己のエゴを呪いながら、アンナの意識は飲み込まれた。