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月に降る雨 / サンプル

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「うぃーす、お疲れさまなのなー」
 司令室に定められた部屋の隣、木製のドアを押し開けると中ではザンザスが一人、持ち込んだ椅子に背を預け、テーブルの上に足を投げ置いてうつらうつらとしていた。山本の声を聞くと薄目を開いて首をこちらへ捻じ曲げ、
「何の用だ」
 と大儀そうに言ったのへ、山本は持ってきた紙袋を肩の辺りまで上げて見せた。
「差し入れ。腹減っただろ、俺もまだだから一緒に食おう」
 そうして許しも得ずに部屋の中へ歩を進め、ザンザスが足を置くテーブルの上に紙袋を置き、中身をがさがさと取り出し始める。
「崩れてなかったな、よしよし」
 大きな独り言を言いながら山本が開いた、大学ノートくらいの大きさのタッパーにはチラシ寿司が入っていた。差し入れ、と言いながら彼が持ってくるのは大抵、大量のおにぎりと惣菜だ。ほぅ、と盛り付けの美しさに感心したように、ザンザスはテーブルから足を下ろし、寿司の上に顔を覗かせる。
「何か動きは?」
 別に用意した器へ箸で器用に取り分けながら尋ねるが、
「気になるなら向こうへ行けばいい」
 と撥ねつけられ、そりゃー無理なのなー、と笑うしかなかった。
 ザンザスが、向こう、と言った場所は街から離れた別荘地内の一軒で、部屋の窓から見ることができた。そこで行われているのは、現在対立しているファミリーとの和解交渉だ。
 ボスの護衛は人数が限られたため、今回山本は外されたのだが、
「交渉次第では」
 と出動を要請されていたヴァリアー隊と共に待機することになった。普段なら後衛に回るような仕事には出てこないザンザスなのだが、幹部クラスは皆任務があり、動くことができず渋々やってきたのだった。
 動くかどうかは連絡次第と聞かされているせいか、妙な緊張感もなく、まるで休日の午後のような気配である。
「見えるっつっても、ホント建物しか見えないのな」
 窓に寄って、テーブルの端に置かれていた双眼鏡を別荘に向けて覗いてみると、人がなんとなく顔が判別できるかくらいの大きさに見えた。高台にあるこの屋敷から、件の別荘は観察がしやすかった。逆に向こうからもそれなりに見えるはずなのだろうが、間の森林が盾になり屋敷の姿を隠してくれている。
 双眼鏡から顔を離し、さて食べるか、と振り返るとザンザスは山本が寿司に口を付けるのを待たず、スプーンを取ってもう食べ始めていた。半分ほど食べてふと、山本が双眼鏡を手に窓際で立ったままいることに気付いた。その目線の先が自分の手元にあると知り、スプーンを置く。
「おい」
 不思議なものを見ているような顔が、はっとなり見慣れた緩み顔になった。
「俺が飯を食うのがそんなに珍しいか」
「うん。いつもは誰かが食べ始めてからでないと、手ェつけないだろ?今日は俺より先に食べ始めたからさ、どうしたのかと思って」
「……これはてめぇが作ったんだろう」
「ん?あぁ、今日は大事な日だからな。大変だったぜー、いい魚が見つからなくって」
「…だから、毒味の必要はねぇ」
 予想していなかった言葉に、え?と言うように山本の顔から笑みが一瞬消え、二人の視線が絡んだのも一瞬だった。ザンザスはまたスプーンを取り上げるとカツカツと寿司を口の中へ運び、丁寧に咀嚼し、飲み込む。
(……信用されてる…ってことで、いいんだよな…?)
 直球すぎる答えは、時に人を迷わせるものである。
「うまい?」
 いつもは聞かない言葉が山本の口元から滑り落ちた。ザンザスは器の上の最後の一口を口に押し込んで咀嚼しながら、難しい顔をし、空になった器にスプーンを重ねた。
「一体なんだ、気色悪い」
「ひどいなぁ…理由なんてねーよ、聞いてみたかっただけなのな。どれ、俺も食おうかなー」
 双眼鏡を元の場所に置き、自分の分の皿に手を伸ばした。
「せっかく誕生日なのになー」
 独りごちて箸を進めながら、
「アレのせいでパーティが開けないって、九代目のジイちゃん、こぼしてたらしいぜ」
 と思い出したように言ってザンザスを見れば、彼はソファの肘掛けに寄りかかってさも面倒くさそうに片手をひらひらさせた。
「知るか。あんなイベント一切お断りだ」
 ガキじゃあるまいし、と付け加えたが、その子供の頃でさえ、毎年盛大に行われたバースディパーティには養父の関係者や近隣のマフィアばかりが集まり、愛想を振りまくだけ振りまいていった。友達に、と連れてこられた同じ年頃の子供たちも親に倣うので楽しく遊んだ記憶などこれっぽっちもない。一体誰のための、何のためのものだったのか。
 この世界ではどんな集まりにも裏がある。目の前のこの男は、そんなこととは無縁のところからやってきたのだな、と思うと少しばかり不憫なような気もした。
「そう言うなよ、ジイちゃんて昔は忙しくてあんまり近くにいなかったんだろ?年に一回、ザンザスのためにきっと精一杯祝ってやりたいんだと思うぜ?ウチも店やってたから普段はあんま構ってもらえなかったけど、誕生日の時だけは店休んでオヤジがお祝いしてくれたぜ。友達呼んで飯食って、ゲームしたりプレゼントもらったり」
 そう言って、思い出に笑みをこぼしたのに、
「分からんな…それが、幸せ、とかいうやつか?」
 と眠たそうに目を細め、ザンザスは手を伸ばし、山本の肩に置いた。
「見たことのねぇ世界だ」
 夢でも見ているかのようにぽつりと呟いて、山本のジャケットの襟に引っかけた小指をほんの僅か引く。それを合図のように、山本はザンザスへ首を傾け、ザンザスも首を伸ばす。重なった互いの唇は、思いの外柔らかかった。
「祝いの礼だ」
 重ねたまま言った声が、隙間を抜けてこぼれた。もう一度、強く押しつけあって離れると、ザンザスはソファに寄りかかり直し、スゥと瞼を閉じた。山本は寿司の乗った器と箸をそれぞれの手に持ったまま、その顔を見た。
 その時、下の別荘から連絡が入った。それはとても簡潔な一言だった。


「交渉決裂」


 部下からの知らせを受け、ザンザスはまた面倒そうに欠伸と伸びを同時にし、体を起こした。山本も残った寿司を慌ててかきこむ。予めいくつかのミッションプランは用意されているが、どれを用いるかはまだこれからだ。片づけは人に任せ、二人は隣の部屋へ移った。
 山本は口の中に残った酢飯を噛みしめながら、彼の見たことがないといった世界を、いつか自分はその欠片でも見せてやることができるだろうかと思った。自分が信じる世界を。彼が信じられない世界を。
「Buon compleanno!」
 山本は、ザンザスの背後でこっそりと言った。
 ザンザスは、すっ、と左手を挙げた。

2009.11.01
作品名:月に降る雨 / サンプル 作家名:gen