不安と爪先
私がそんなふうに苦々しげな顔をしていたのは、たぶんほんの短い間だったと思う。だけれど、井上さんはそんな私の些細な所作にも気づいたようで、眉を少しだけ潜めた。
「雪村君、どうかしたかい?」
「いえ、その」
私は言葉を区切って、爪を――と続けるべきかどうか一瞬思案して、結局そのまま黙ってしまう方を選んだ。その沈黙を先ほどの心配の延長だと受け取ったのか、井上さんは柔らかく微笑みなおすと、心配しなさんな、と再度優しい口調で諭してくれたから私はただ短く「はい」とだけうなずいた。
屯所を八木家から西本願寺に移してから、こんなに人が出払ったのは初めてだった。普段通り夜の巡察にいっている隊士のみなさんと、取り物のために、かり出されている隊士のみなさん……おかげで幹部の人々は方々、皆出払っており、今ここに残っているのは留守を任された私と井上さんだけだった。
広い部屋でふたりでぽつんとすわっていると、ただでさえ広い室内がいっそう広く感じられた。私たちが隊士のみなさんを案じる言葉もすぐに霧散してしまうような気がした。
八木家で過ごした日々――池田屋、禁門の変への参加を経て、少しは私も新撰組の一員になれたような気がしていた。そんな矢先の山南さんの事件、その後の屯所移転。私は今の状況に、あのとき感じた溝を再び感じずにはいられなかった。それは屯所を移転したことを機に、何もかも心機一転とばかりに今までのことをなかったかのように変化してしまったようにも思えた。
おまえは残ってろという土方さんの言葉が、当たり前だったはずなのに、少しだけ寂しい気もするようになってしまう。まるで私だけ取り残されたかのように思えてしまった。
もちろん、巡察や取り物に参加したところで私が何か役に立てるとは思わない。だけれど、自分だって一員として、そばにいたかった、そういう気持ちが少なからず生まれてきてしまっていた。
自分でできることは、役に立てることはしておこう。そういつだって考えていて、できる範囲でがんばろうと思ってた。だというのに、こんな局面にたたされてやはり足手まといと言うことを実感してしまう。私は、隊士ではない。せいぜい留守を任される程度で、そのうえ守られる存在なのだ。
拳を握りしめれば、爪が手のひらに食い込んだ。不格好に伸びた長い爪なんて、それこそ何の役にもたたない。普段の活動の邪魔になることはもちろん、何かを傷つけてしまう刃にも、ならない。ただ邪魔なだけ。まるで今の私のようだ。
今だって井上さんはおそらく私を守るように言われて隣にいるのだろうと思うと、ますます歯がゆかった。いつだって自分のことに精一杯で、気をつかってもらっている立場のくせに、その自分のことですら満足にできない私は、人を心配する資格すらないのかもしれない。――足手まといでしか、ない。
「雪村君」
「はい、なんでしょうか?」
柔らかな井上さんの声音が、頭上から降ってきて、私は考えていたことからそちらの方に急いで頭を切り替えた。彼はやはり、先ほどと同じような表情で私を見つめるとこう口を開いた。
「私たちは、君が思っているほど、君のことを足手まといだとは思っていないよ。むしろたくさん感謝しているくらいだ」
「井上さん……」
私はその言葉にどきりとした。井上さんは私の先ほどの沈黙の意味を、やはりわかっていたのだろう。私の奥底に揺れている不安をすべて見透かすような、凪いだ瞳をしてこちらをみていた。
「同じことの繰り返しになってしまうかもしれんけど、君は確かに隊士じゃあない。だが、君は立派に君のつとめを果たしてる。だからそう、不安にせんでも大丈夫さ」
「私の、つとめ、ですか?」
「そうとも。たとえば、こうしてみんなの帰りを一緒に待ってくれることもそうだよ」
それに炊事洗濯や掃除なんかも……あぁこうっやって数えてみると、私たちはずいぶん君に頼りすぎているかもしれんなあ。
首を傾げた私に対して、井上さんはそういうと、ははと笑みをこぼした。私はそれに三度ほど瞬きをしたのち、つい、同じように笑ってしまった。井上さんの顔を見ていると、不思議と自分の中にあって固まっていたはずの不安がほどけるようで、気づいたら笑みがこぼれていた。
「私は、みなさんの一員になれるでしょうか。ただ父様を探すためだけでなくて、新撰組の一員として、ここにいられるでしょうか」
視線を落とせば指先が、不自然な爪が目に入った。
「あぁ、なれるとも」
井上さんが声とともに肯いてくれたときに、庭の方からがやがやといった音が聞こえた。それが何を示しているか気づいて、私たちはお互いに顔を見合わせる。
「帰ってきたようだね」
「はい……!」
「せっかくだから、出迎えてやるとしよう」
井上さんは微笑むと、素早く立ち上がった。「はい」と返事をして私も続いて立ち上がる。井上さんは、そのまま歩きだしていたけれど、私はその場で立ち止まったまま手のひらにうっすら残った爪あとをみていた。
この爪は、私と同じ。自身のうちに浮かんだ言葉を繰り返す。
私はもう一度握り拳を作って、その痛みを身に落とした。そして、今夜中に不格好なそれを不安とともに全てきれいに切り落としてしまおうと決めて、井上さんのいつも以上に大きく見えさえする背を追った。