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たった一つの願い

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耳元が衣擦れの音を敏感に察知して、沖田は目を覚ました。
目を覚ましたと言っても、例の如く仕事をサボって、昼寝をしていた訳ではない。正真正銘の病人として、おとなしく夜具に着替えて、床に臥せっているのだ。沖田は、衣擦れの正体に、案外はっきりとした声で呼びかけた。

「土方さん」

「…起こしたか」

意外な近さで聞こえた声に、沖田は薄くしか開いていなかった目を見開いた。

「…何だよその顔は」


「いや…仕事は?」

土方は淡々と枕元でタオルを絞りながら、

「昼休憩」

と短く答えた。沖田は身を起こそうとしたが、土方に軽くあしらわれて、叶わなかった。

「良いじゃねェですか。俺ァもうピンピンしてまさァ、土方さん」

「大丈夫な奴は、そんな顔色してねェんだよ」

土方はにべもない。先程から、切れ長の涼やかな瞳は伏せられていた。
そういう時の土方の心情を、沖田は嫌と言うほど知っていた。兎に角、心配で不安で仕方ないのだ。

「そんな酷ェ面、してますかねィ…?」

「たりめェだァ。おめェ、自分が桶一杯分血ィ吐いたの忘れたか」

「…それは嘘でィ…」

「あん?」

土方がチラと視線を動かした。黒ではなく、灰色に近い瞳が真っ直ぐ射抜く。
その眼は、微かに怒りと咎めるような視線を含んでいた。沖田は眉を寄せた。

「土方さん、昨日寝ましたかィ?飯は食った?」

「…関係ねェだろそりゃ」

「ありまさァ。言わねェってんならここで犯しやす」

「ッッ!?」

土方が驚いたように顔をこちらに向けた。三日前より痩せた。頬の線が細くなったし、元から白い肌が、紙のような色合いだ。
貧血性のこの男は、もしかしたら昨日からその症状に悩まされているのかもしれなかった。

「ねェ、土方さん」

「寝てる!飯もキチンと食ってる!てめェはてめェの心配しやがれ」

目を見ないで、告げられる。この人は嘘が下手くそだ。いつもは恥ずかしくなる程目を見つめて話すくせに、今はどうだろう。
顔も見えやしない。

「っ、わっ」

ぐいっと手を引っ張ると、簡単に土方はよろけた。
そのまま沖田の胸の中へ閉じ込めてしまう。

「ちょ、総悟!何してる、放せ馬鹿っ」

「馬鹿ァ?…よく言えたモンですねィ。よっぽどお仕置きされたいのかねェ」

「ち、違う」

ジタバタもがく土方を、沖田は力で抑え込む。
いくら血を吐いても、三日三晩、誰かしら付きっ切りで看病されたら、体調も戻るというものだ。
力じゃ勝てない土方は、焦ったように声を上げる。

「お前、またぶり返したらどうするんだよっ!その病は完全に治ることはねェ病なんだぞっ!」

「知ってまさァ。でも、アンタがあんまりな嘘つくんだもの…」
沖田はふっと笑って言った。土方がバツが悪そうに、身じろぎする。

「……そーご。放して…」

抵抗の弱くなった土方は、か細い声で告げる。

「嫌でィ。正直に言いなせェよ」

「……ねェんだよ」

「え?」

沖田が顔を覗き込むと、彼は子供のように頭を振った。どうも、顔を見られたくないらしい。

「お前がっ!!…倒れたって聞いて…」

そこで小さく、ひゅっと息を呑むのが分かった。

「…身体が震えた…。指先が冷たくなった。視界が霞んだ。思考が鈍った…」

呟いて、微かに、震える。沖田は良い香りのする、さらさらとした土方の漆黒の髪に鼻をうずめた。

「…俺ァいつからこんなにお前に依存して生きてたんだろうなァ… 」

「うん……」

なだめるように優しく背中を撫でてやると、土方が沖田の背中に腕を回した。

「…。だから、嫌だった。嫌だったんだ…。失いたくねェモンが増えるたんびに、弱くなってくんだよ…」

「…うん。うん」

ぎゅうっ…と沖田も土方を抱きかえす。

「…お前のこと思うと、辛ェんだ」

変に詰まったような、くぐもった声が、そう言った。沖田は二重の瞳を閉じる。土方の言葉は、端から見れば、決別の言葉とも受け取れるだろう。
でも、それは違う。
それは、二人の間で暗黙の了解であって。
どんな言葉より。
何千、何万の愛してるの言葉よりも。
直接心に響く。

「…それで、物食えねェんで?」

「…あァ。…情けないだろ…?笑っていい」

「誰が笑うかィ」

沖田はあくまで真摯で温厚に、土方の頭を撫で続ける。

「そりゃ違いまさァ、土方さん。アンタは俺に依存なんてしてやいやせん。俺たちァ支え合って、生きてんですよ。お互いのこと思って」

土方が、沖田の胸から、ぎこちなく顔を上げた。
うっすらと赤らんだ目元が痛々しい。

「大切に大切に思うことは決して弱くも恥でもねェ。誇りなんですぜ…」

その一言で。
土方の瞳から、はらりと雫が溢れ落ちた。
多分彼自身は、涙が溢れたことも分かっていないのだろう。
そしてそれが、あまりにも透明なことも。
沖田は何かを堪えれるように、親指でその涙を拭う。それでも足りなくて、舌で滑らかな頬を舐める。

「ん…」

鼻から抜けるような声が漏れ聞こえた。
もう、言葉はいらない。
ただ。
アンタは俺のために何かしようとは思わないで。
ただ、自分のために。
生きて欲しい。

「…ひじかたさん…」

頬を移動する唇を、土方のそれの上に合わせる。

「ぁ…―、ん」

まるで甘い菓子を喰うかのように、口付ける。

「そぉご…」

アンタは生きて。
それが、俺の唯一の願い。沖田はただそれだけを胸に。
土方の腰を強く抱き締めた。








fin
作品名:たった一つの願い 作家名:神木晶