わすれものみつけもの
小野田は、できれば後者の対応を取りたかった。人気のない校舎というものは、存在そのものが不気味で怖い。立ち入らないで済むならそれに越したことはない。
そう。できるなら、忘れたことにしておきたかったのだ。
思い出してしまったソレが、月曜提出期限の課題でさえなかったら。ついでに言えばその課題が、大変厳格なことで校内に名を馳せる数学教師の出したものでなかったならば。
「取りに行っとけ、それは」
小野田の自主練に付き合っていた先輩は、呆れたように断言する。
「アイツの説教はネチっこいショ」
「で……ですよね……」
苦虫を噛み潰したような顔で言う、二つ年上の先輩もまた当該の教師には良からぬ記憶があるらしかった。
目の前の壁は突破するしかない、けれど何も自分から、越えるべき壁を高くする必要もないと小野田は思う。あの数学教師による逃げ場所のない説教と、がらんとした校舎の薄気味悪さを天秤にかけたとき……それでも少しだけ、懊悩したのは確かだったけれど。
「……何なら、これから取りにいくかァ?」
小野田坂道は考える。
もしもこの時、差し伸べられたやさしい手に。
選び切れない選択肢の片一方を、不意に軽くしてくれる言葉に甘えて「はい」と答えなどしていなければ。
そうしたら、こんなことにはならなかっただろうか。
秋の夕方は思う以上に短い。二人、自転車を並べて学校の裏門に着いたときには辺りはすっかり薄暗くなっていた。敷地のそこかしこに頼りない蛍光灯、それから中天に丸い月がぽっかりと大きく白く光る藍色の空。
明かりをつければ宿直の用務員に見つかって怒られるのは必至なので、ひっそりと潜り込む建物の中は外にも増して薄暗い。一人なら裏門坂を登る前にUターンしていただろう道のりをルパン三世の気分で踏破して、月明かりが作る影絵のような教室。机に手を突っ込む時には、ああ僕はとんでもないものを盗んで行きます、それはあなたの心です、なんて呟く余裕すらあったのだ。
……手持ち無沙汰に窓の外の濃灰色の世界を眺めていた人が、ヤベェ、と舌打ちするまでは。
「隠れるぞ」
「な……わ、わ」
何でですか、なんて問い返す暇もない。
二の腕を強く掴まれた、思った瞬間に少しの浮遊感、くるりと回転する視界。
バランスを崩して後ろ向きに倒れ込んだ、その体を壁や床の硬さではない何かが受け止めた。状況が掴めないまま反射的に立ち上がろうと動かす手足は、背後から伸びる長い腕に押し留められて。
「……って、え、」
………………背後から?
手のひらで触れる床はひやりと冷たく、裏腹に背中はじわりと暖かい。尻餅をついた腰を両脇から支えるようにこれまた日本人離れした長い足で支えられている。
「え……っ!?」
小野田は、そこでようやく気がついた。
この体勢は自分が『今』『どこに』いなければ成り立たないかということに――つまり。
「う、ひゃっ、ま、巻島、さん」
つまり自分は今、床に座り込んだまま背後から覆い被さるようにして強く抱き寄せられているのだと。
気づいた瞬間、心臓が口から飛び出すような思いがした。
「動くなっショ、黙ってろ」
「い、いやでもあのこれは一体どういう」
「いいから大人しくしてろってん、ショ」
「むぐ……っ」
思い切り逃げ出そうと動いた体は、跳ね上がる鼓動が勝手に動かしたものだ。無理矢理押さえつけられ、苛立った声と共に唇を塞がれて、小野田はますます目を白黒させる。
いまだかつてない至近距離で、至近という言葉でさえ遠すぎる場所で感じるその人の体温、腰に回された腕の骨ばった感触。微かだけど確かにわかる、自分とは違う家のにおい。髪を揺らして届くその人の――言葉。
遠いところから、ほんの微かな音が聞こえた。多分職員室のあたりから。
あしおと。
ぼんやりと呟いて、けれど今の小野田には自分が呟いた単語の意味などわかっていない。ただ顔がひどく熱くて、心臓が煩くて仕方ないのだ。
こんな慣用句みたいな状態が、人には本当に訪れるものだとはじめて知った。
「ユーレイとか言い出すんじゃねぇぞ。守衛の見回りショ」
「あ……ああ、静かにってそう……いう」
「ここまで来るかはわかんねェけどな。これだけ静かだとこっちの音も響いちまう」
だから静かにしてろヨと。
言葉に素直に従って口を噤んでも、遠い足音に気を取られているのか先輩の腕は動かない。つまり小野田の体を捕えたまま。口を塞ぐ手のひらは大きくて、長い指先がそっと頬に触れたままだ。
「……っ」
そんな場合じゃない。
そんな場合じゃないのだ今は。夜の教室にこっそり潜り込んだなんてことがバレたなら、きっと並んで怒られる。自分ひとりならまだしも、付き合ってくれたこの人までとばっちりを食うのだ。卒業を控えて、出来るだけ問題など起こしたくないだろう人が。それだけは駄目だと小野田は思う。
思うのに、――ああ!
どれぐらいの時間が過ぎただろうか。
階下のどこかで、扉の開く音がする。
開く音、閉じる音、そしてまた静まり返る校舎の片隅で、騒ぎ始めた心臓だけが変わらずに喧しい。
「ま、きしまさん」
「…………ん」
守衛は、行った。行ってしまった。
「その」
だからもう、こんなに小さく身を潜めなくてもいいはずなのだ。
先輩も、それを知っている。小野田はそれをわかっている。ふたりの立てる物音以外、校舎の中はこんなにも静寂に包まれている。
だから――だから。
「もう少し、その……静かにしてた方が」
だから、小野田には聞こえてしまう。
頭蓋骨の内側、大音量で木霊する自分の鼓動とは別の。
確かに別なのに、同じぐらい早いそのリズムが。
「……アイツ、まだその辺うろついてるかも知れねぇ……ショ」
「……………そう、ですよね」
真ん丸い月が窓から見えて、今夜はやけに明るいようだ。
作品名:わすれものみつけもの 作家名:蓑虫