一万回、好きって言って
数えきれぬくらい耳にしたその言葉は、初めてそう囁かれた時に似ていて、こちらの心臓をぐっと掴んでしまうような響きがあった。すぐさま達海は相手がなにかを企んでいるのを本能的に察知した。もはや職業病と呼んでもいいその勘のよさから達海はなんでかこういうことに気が付いてしまう。
隣で大人しくテレビ画面に視線をやっていた男は、不意に目を細めて達海をみつめた。言葉と違ってその視線にはなにもない。付き合っている恋人にやさしい視線を送っていると言える程度のものだ。
「なあ、いやに改まってないか、今日」
「あれ、もしかして気づいてないのかな?」
なにをだよ、とは言わなかった。
この男、ジーノが発言に含みを持たせることを好むのを達海はよく知っている。なので、日頃の彼らしくなくそれ以上突っ込むことなく黙って彼の発言に耳を傾けた。
「残念だね。ボクはずっとこの機会を待っていたっていうのに」
「だから、なにを」
「約束」
より一層瞳を細めて、ジーノは優雅な手つきでDVDを一時停止した。画面の中で必死にボールを追いかけている男たちが、まるで魔法にかかったかのようにぴたりとその動きを止める。と、同時に、スタジアム中を埋め尽くしていた歓声も止み、たった二人の男の息遣いだけが聞こえる部屋はしいんと静まり返っている。
約束ねえ、と達海は呟いてジーノからリモコンを取り返した。が、かといって再生ボタンを押すわけでなく、手持ち無沙汰の子供のように手のひらでチャンネルを放って、ジーノの言う約束を記憶から発掘しようとした。
ジーノと達海の間には結構な数の約束がある。その大半はジーノから持ちかけられたもので、内容もほとんどが彼が喜ぶだけのもの―たとえば試合中にシュートを打ったら達海自らあんなことやこんなことをするとか―で、いちいち記憶に引っかかるような代物ではない。なんとなく思い出せる程度のものを拾ってみるが、どれもこれもジーノがこの場で約束だと主張するものに適合しそうになかった。
「思い出せないんだけど」
「ちょっとそれはひどいんじゃない?」
「じゃあ、ヒントくれよ」
「しょうがない、優しい王子がヒントをあげようか…ヒントはね、一万回だね」
「一万回」
おそらくジーノの顔つきからして彼なりの盛大なヒントなのだろうけれど、達海の脳内検索機には引っかかりもしない。こういう時は考えるよりも、大抵の場合は降参してしまった方がはやい。勝ち負けの関係ないただの戯れなのだから。
降参の代わりに両手をあげて首を振ってみれば、本当に? といささか彼にしては珍しい声色が返ってくるが、やがていかにも仕方ないといった感じで達海の手をとって、自然とそこにジーノ自身の手を絡めはじめた。
「タッツミーはひどい男だね」
「とっかえひっかえなお前には言われたくないんだけど」
「ボクはいいんだよ。王子だからさ。でも、タッツミーは駄目だよ」
こういうことを心から本気で言っているから困る、いや別に困らないか。瞬時に思い直して、達海はちいさく頷いた。ときどき度を越したジーノのくっつきたがり(今みたいな手つなぎだとか)を単純にめんどくさいと思うこともあるけれど、困らせられたことはたぶん一度だって、ない。ジーノは達海と同じでほんとうに聡い男だから、達海がいやだと思うラインに達する前にするりと方向転換することが出来るのだ。楽な男だった。とくに、35歳になって恋愛とかそういうことが少々面倒だと思うような輩にとっては。
「で、約束って?」
「自分で思い出せばいいじゃない」
「分かんねーから降参だって言ってんだろー」
「考えないと脳みそ腐ると思うよ、タッツミー」
「腐るのは困る」
「うん、ボクもだ」
ほんの一瞬だけ、達海の鼻先にジーノのくちびるが触れた。驚いたりはしないし、もちろん照れることもない。何度も、それこそ一万回を超える数だけそうされてきたせいなのだろうか。はじめからそうだったかもしれないが、あまりに多すぎるせいで最初のことなんかとっくに忘れてしまった。それは好きという言葉でも同じだ。あんまりにも囁かれすぎるから、女子高生のちょーかわいいーと大差ない気がするように感じてしまうのはけっして達海の責任ではない。
「じゃあ、仕方がないから答えを教えてあげよう」
「おう」
「ボクが一万回好きだと言ったら、君はボクに一回好きと言わなくちゃいけない」
至極真面目なジーノの顔に、ようやく達海もおもいだす。あまりはっきり覚えちゃいないが、確か前にそんなことを約束したような気もした。いや、した。あの時の達海がどうしてそんな約束を交わしてしまったのかは思い出せないけれど。ジーノは黙って達海を見つめてくる。自分は、律儀に約束を守った。だから、達海も約束を守るべきだ。目は、そう訴えていた。
「一万回律儀に数えてたの、お前」
「いけないかい?」
「いいけどさ・・・・・・好きだ。これでいいか?」
「浪漫も情緒も何もないが、約束は約束だ。うれしいよ、タッツミー。ボクも君が好きだ」
心の底からそう思っていないのは、探らなくても知れたことで、ほんの少しだけ達海は悪いことをした気分になった。練習や試合の時はそんな気持ちになったことなど一度だってないというのに。一応、腐っても恋人という立場のせいだ。たぶん。きっと。
繋いだ手に力をこめてジーノが言う。
「やれやれ、また君の告白を聞くのに9999回も好きって言わなくちゃいけないんだね」
「まだ続いてんのかよ…」
「うん。ずっとね」
ジーノのさらりとした髪が首に当たった。それと、肩にぬくもりと重さ。黙ってそれを受け入れていると、自分よりもほんの少しだけ大きな身体がますます力を加えてくる。いつもよりすこし子供っぽい。そういった一面を見せるのがとりあえず今は自分だけというのが、適度に嬉しいのだと、なんとなく思った。だから、まあ、たまには優しくしてやらねばならない。
「後、一万回だろ」
どうしてさ、と問いかけてくるジーノを無視して、達海は再生ボタンを押した。観衆の叫びが再び部屋を満たす。動き出した選手たちの試合をじっと見つめるが、残念ながらあまり頭には入ってこなかった。同時に今日はこれ以上DVDを見続けられないのも悟る。達海はふうと息を吐き、停止ボタンを押しながらちいさく呟いた。
「好きだ」
作品名:一万回、好きって言って 作家名:マツモト