拒絶
彼の拍動は、私の手のひらの中で柔らかく、だけど確かに脈打っている。
私はただじっと自分の手を見つめた。
規則正しい、命を燃やす音が私の耳に届く。紛れも無い、彼を想う愛しさが溢れた。
嘉音くんは私の手を所在なさげに見つめ、悲しい眼差しを私の手にこぼれるほど注いだ。
「…生きてるんだよ、嘉音くん」
嘉音くんは一瞬怪訝な顔を見せると顔を伏せ、私の手を胸からゆっくりとはずした。壊れそうな薄い陶器を扱うかのように、両手で私の手を、外した。どんな表情だったかはわからなかったけれど、きっと泣きそうな顔をしていたんじゃないかと思う。
「…違います」
喉に詰まるように、震える声で小さく彼は呟いた。
私は、透明で鋭利なものが胸にきりりと傷をつくって、その間を乾いた風が通るのを感じた。喘息みたいに、ひゅうひゅうという音が私の体に響いた。今一瞬だけでも繕おうとしたけど、どうしたって塞げなかった。顔の筋肉も重力の為すがままにだらりとしきって、自由がきかなくなった。彼は私を見つめ、ばつの悪い顔をした。それを見て、また彼を困らせただけなのだと肌身に思い知った。彼に纏わりつく冷たい空気を、頑なで鋭い鈍重な凶器のような彼の心を、私にどうすることもできないことを知ったから、私はただのお嬢様でいなければいけなかった。ずっと前から判っていたのにと、自分の愚かさを呪い、自嘲した。こういうところが、所詮「お嬢様」なのだろうかなどと、ぼんやり思った。
「ごめんね」
声が震えた。その震える声が聞こえた反射で、涙がこみ上げた。
嘉音くんは砂を噛むように目をそっと伏せた。そんなつもりじゃないんだ、ただ、目に睫毛が入って…などと流暢に言い訳できたら良かったのに、なんだか鉛を飲み込んだみたいにお腹の底の方が重くて、続ける声すら出なかった。
泣くつもりなどなかったのに。
苦しめるつもりなんて、これっぽっちだってなかったのに。
ただ、好きなだけなのに。
私は無言で嘉音くんのそばを通り過ぎた。涙は見せたくなかった。
お互いに何も言わず、鈍く、重たく空気が揺らいで、彼が見えなくなった。
廊下をただ足早に歩いた。紗音とすれ違ったかもしれない。でも、今は誰にも会いたくなかった。無駄に広い屋敷を、どこへ行くでもなく歩いた。ふと気づくと、廊下の突き当たりに出た。私は、やっとそこで声を殺して泣いた。誰にも気づかれないように、息を殺して体の涙が枯れるほど泣いた。ただ悲しかった。鉛を吐き出そうとするみたいに、静かに嗚咽を漏らして泣いた。
もう、彼は心を開いてくれない。
私もただのお嬢様でいるしかない。
それしか私にはできない。
それだけが彼を傷つけない。
彼と出会わなければなんて思わない。彼の心を卑屈だとも思わない。
ただ、私は彼のなにものでもないことが、こんなにも苦しくて、辛かった。