空蝉
「黙ってろ」
たった一言で切り捨てられて、山崎は何だかとても腹が立った。……いくらあんたが土方さんで副長だからってそれはないんじゃないのほんともう何なんだよむかつくむかつくむかつく顔でも腹でも殴ってやりたい悪かったなんてそんなんじゃなくてゴメンナサイって言わせてやりたいだってあんた、
(おれのことなんか、ひとつもすきじゃないくせに)
どうしてこんなことになったのか。山崎には分からなかった。ただ、土方に抱かれているという事象だけがここにある。そもそも山崎は、土方を呼びに来たのだ。夕食が出来たから、と。
私室を覘いても姿が見えず、それじゃあと執務室の戸を開けて、けれどそこにも山崎は、土方を見つけることが出来なかった。厠か、風呂か、それともふらり、出掛けてしまったのか……。そう思ってひとまず確かめた玄関には、土方の履物がそのまま並んでいる。厠と風呂には人のいる気配がなかったし、それじゃあもう一度、私室から順番に……。そうしたところで山崎は、庭に面した屯所の縁側で、ぼんやりと昇りかけた月を見ている土方を見つけたのである。
まず山崎が思ったのは、めずらしいな、というそれだった。縁側で何かをしているのは沖田だというイメージがあって、どちらかといえば土方は、私室に篭っているか、屯所の外で女と会っているイメージが強い。
足音は聞こえているんだろうに、土方は山崎を無視して空を見上げたままで。何か、面白いものでもあるんだろうかと釣られた山崎には、ぼやりと欠けたしろい月と、チカチカちいさな光りを瞬かせて遠ざかる宇宙船の影しか見えなかった。
「……風邪を、」
引きますよ、なんて。そんな気遣うようなことを言ったのは、夕の風にそよがれる土方の黒い髪が、なんだかとても冷たく見えたからだった。透明に空を見上げる土方の睛が、涙も無いのに泣いているように見えたからでは、決してない。そうやって山崎が声をかけてやっと、土方は意識をこちらへ向けて、大丈夫だろ、と、けれど睛は空へ向けたまま、そう言った。
いつも通りの声に安心したのは、土方が、声にあまり感情をのせないたちなのだと、思い出す前である。
……夕食が、と言いかけたのは確かだ。けれど、それよりも先を、山崎は言うことが出来なかった。ふと振り向いた土方が、山崎の右腕を取って、自分の胸に引き込み、抱いてしまったからだった。
土方の髪が頬に当たってちくちくとする。いっとう最初に分かったのは、それだけだった。――それから少しずつ、自分が土方の膝の上に乗っていて、土方の腕の中にいて、土方の顔がすぐ右にあって、と、そういうことが分かってくる。土方の着物が冷たいとか、土方の髪から煙草の匂いがするとか、そういえば、今は何も吸っていないのだな、とか、そういうことを。
それとは別のところで、真っ先に考えたのは、誰かがここに来たら、というそれだった。だってほら、土方の手は、こんなにもやさしく自分の髪を撫でているのだし。土方の腕は、こんなにも狂おしく、自分を抱いているのだし。
自分の顔は、こんなにも熱くなっていて、自分の心臓は、こんなに鼓動を早めかせているのだし……。
「副、長、」
擦れたような声で、ようやく、あの、と。言ったかどうかのところでぼそり、土方が呟いた。
黙ってろ、と。ただそれだけ。
途端、山崎はカッと目の前が白くなった。……土方の腕なんて、本気になれば逃れることは出来る。振り払って、縁側から庭に突き落としてやることだって出来る。
土方は、山崎が自分の言うことを聞くと思っているのだ。そう分かって、山崎はますます気が高ぶった。自分の気持ちなど、とうに知られてしまっている……そんなことは分かっていた山崎だったけれど。それを、こんな風に利用する、土方が――――
ゆるせないような気持ちになるのだ。
その腕の呪縛から、逃れた左の手。殴り倒してやりたい。そう思うのはほんとうだ。けれども。
廊下に落ちる自分たちの、ひとかたまりの影に、なんだか山崎は眩暈がして、その胸のうちとは無関係に、土方の背を、そっと抱いた。
何があったかなんて、絶対に訊いてやらないけれど。悔しく、悔しく、哀しいけれど。