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スタートダッシュ

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 フローリングを侮ってはいけない。靴下を着用している時は特にだ。油断大敵とはよく言うけれど、よもや戦闘でもなんでもない場面で実感するとは露とも思わず。
 家主が気持ちよく過ごせるようにと、こまごま家事をするのは少年にとって最早日課だった。今日も今日とて決して例外ではく、放課後、足立のアパートへと直行した少年はすぐに掃除を開始した。掃除機をかけるだけに飽き足らず、丁寧に乾拭いて、見事光り輝く床を生産してのけた少年は満足気に吐息した。
 さて、次は食事の用意だ。意気揚々とばかりに台所へと足を向け、一歩を踏み出して少年は失敗を悟った。世の皮肉に苦虫を噛む。よもや自分の善意が仇となるとは。埃一つ、塵一つ落ちていない床は、この時摩擦がほぼゼロと化していた。
 ふわりと浮遊感。足を滑らせた、そんな自覚を覚える暇もなく後頭部にすさまじい衝撃。痛みはなかった。と言うより感じなかった――そんな余裕などなかった、ということなのだろう。要するに。
 数え切れぬ幾つもの星が、目の前でぱっと散る。他人事のように「きれいだなあ」とぼんやり思っている内に、何も考えられなくなった。ぼう、と紗がかかり視界が陰る。それから数秒とかかることなく、ものの見事にブラックアウト。
 さて、どれくらい時間が経ったのか。一時間かもしれないし、一秒かもしれない。判るわけない。判ったところでどうにもなるまい。けれどいっそ永遠かとも思う時間の流れの中で、声が、聞こえたような気がした。
 名を呼ぶ声。誰の? 自分のだ。誰のものでもない自分ひとりの名前。呼ばれている……誰?
 このまま眠ってしまいたいという誘惑を振り切って、重く閉じた目蓋をそうっと開ける。ぼんやりとしてよく見えない。全く何も、ということもないが。
 認識したのは一つの顔。普段はのんびりと眠そうな。けれども今は、どこか泣きそうに歪んで見える顔。
「……ち、さん…? ……」
 どうして、そんなに悲しそうな顔をしてるんですか。
 少年は青年に問いかけた。声にはなっていなかったかもしれない。でも問わずにはいられなかった。見たことのない表情に、胸が痛む。
 悲しいんですか。泣いているんですか。何が悲しいっていうんですか。泣かないでください。

 泣かないで。

 手を伸ばす。指先が、ほんの僅か頬に触れる。
 その刹那。
「――っ …つぅ…!」
 後ろから突き抜ける鋭い痛みが、少年を襲った。慌てて手を引っ込める。思わずぎゅっと目を閉じた。聞き覚えのある声が、上から降ってくるのを聞きながら。
「気付いた? 大丈夫かい」
「…っ、足立、さ……痛ッ」
 がば、と身を起こすとまたしても鋭い痛みに襲われた。眉をしかめて堪えたが、呻き声は止められなかった。
「あーもう、急に動かない動かない! 君、頭打ってるんだろ? どう、目眩は。吐き気あったりとかする?」
 青年――足立透の問いに、少年は首を振って否定した。そのせいで、くらりと気が遠くなる。
「……すみません。やっぱり――目眩は、します…」
「そりゃあそうだろうね。そんなに激しくぶんぶん首振ってりゃあさ」
 呆れた響きを隠さずにこぼしながら、足立はひどく判りやすいため息を一つ付いた。それでもぐらりと倒れ掛かるのを防ごうとする、少年の肩や後頭部を支える手つきはひどく優しい。
 伝わる掌の感触が、じんわりと温かい。そのぬくもりがひどく嬉しかった。痛みも薄まってくるような錯覚さえ感じるほどだ。
「気っ持ち悪いなあ……何笑ってんの君」
 指摘されて驚いた。そんなつもりはなかった。顔に出ていた自覚がない。頬の辺りが熱くなる。何それ、赤くなるようなこと? 更に指摘される。いたたまれず、少年はただただ下を向くしかなかった。
 ぺちん、と情けない音がした。足立に、頭を軽く叩かれたのだ。衝撃が響いて眉をしかめる。
「あーあ、こんなでっかいコブこさえちゃってさあ……」
 妙に古式ゆかしい物言いに、自然と口許が緩んでいく。今まで知らなかった一面を垣間見られたことが、こんなにも心弾むものだなんて知らなかった。
 おい何笑ってんだコラ。罵られて、今度は頬をつねられた。『痛い』と『ごめんなさい』を立て続けに口の端に乗せる。緩む口許は元に戻ろうとしない。
 足立は不機嫌もあらわに眉根を乗せた。馬鹿にされている、と思ったのだろう。少年はひたすらごめんなさいを繰り返すだけだ。ごめんなさい、ごめんなさい、そういうことじゃないんです。
「――ったく、へらへらへらへら笑ってばっかでホンット気持ち悪いったら。まさかとは思うけど、どっか打ち所が悪かったってんじゃないだろうね」
「ええと……さあ…どうなんでしょうね?」
「訊いてんのはこっちの方だっつの」
 唸りと共に吐き出して、やおら足立は肩を竦める。
「ま、いいや。明日、病院行って診てもらっておいでよ。この調子だったら大丈夫だとは思うけどね」
 念の為ね、念の為。と、足立は繰り返した。礼を述べると、決まり悪そうに口の端を歪める。
 よしてよ、君を心配してとかじゃないよ。僕のうちで転んだのが原因で脳出血で死にました、とかなんて気味悪いじゃない。僕の心の安寧の為に行って来いつってんの。判る? 僕ぁね、平凡に、平和に暮らしたいだけなんだよ。ただそれだけなの。
 掌をぱたぱた仰がれながら、一気にまくし立てられた。少年は、はい判りましたと素直に頷く。口許に微笑を浮かべながら。
 心の奥底から温かいものが滲んでくるのを止められない。口ではああ言っているけれど、足立が少年を心配しているのは明白だった。普段はどうだか知らないが、こんな時、足立は嘘をつくのが下手になる。

 翌日、病院で診てもらった結果は足立の言った通りになった。異常なし。まだ少し痛みはあるけれど、そうたいした問題じゃない。あと数日もすれば完璧に治ってしまうだろう。元通りに。
 胸をよぎったのは一抹の寂寥感。そして、泣きそうに歪んだ顔の幻。
 少年が喪失することを怖れる顔。
「――――呆れたな。おれ、こんなに性格悪かったんだ……」
 軽く額に手を寄せる。小さく、かすかな吐息が空中に溶け去った。わっと湧いてくる欲望。あの顔が見たい。もう一度。
 もう一度だけでいいから。
 数秒だけ黙考し、うん、と少年は頷いた。

 ごめんなさいごめんなさいあだちさんごめんなさいおれってやつはわるいこですね。だから。

「ただ倒れてるだけ…じゃだめだな、そんなのすぐばれるに決まってる。あ、血のり撒いて、包丁とか落ちてたらどうだろ。危ないかな。だいだらの親父さんに相談してみようか――」

 おれのこと、しかってくれますか。

 胸の裡で問いかけながら、少年は口許に小さく笑みを刻んだ。しょうがないなあ、と呆れた彼の声が、聞こえたような気がした。





END
作品名:スタートダッシュ 作家名:歪み月