六等星
ぴしゃぴしゃと靴のつま先で水を掬いながら歩いていると、急に雨が止んだ。
――――嘘。誰かが後ろから、傘を差し掛けている。それが正解だ。油紙を雨が叩くぱたぱたという音が聞こえたので、神楽はすぐに答えを見つけた。
「…………」
立ち止まり、けれど振り返らず、仰ぎ見る。首を傾ける動作で、右側の髪の一房から、雨のしずくが垂れた。空から落ちてくるそれとまるきり同じものの筈なのに、自分の髪から落ちるとき、どうしてそれは、これほどに重く感じるのだろう。
仰ぎ見た、その先。――そこには、雨雲の灰色を遮って、鮮やかな青が広がっていた。
「……いい趣味アル」
「お褒めに預かり、恐悦至極」
そんな口も利けるのかとまず思い、聞き知ったその少年の声に、なるほど、傘の位置が低いわけだと納得する。裏地に空の青を使った傘だなんて、意外に洒落者だ……。
ところで、ここはどこなのだろうと神楽は思った。見たことのない道。歌舞伎町の中ならば大体分かるけれど、実は他の街はよく知らない。背の高い建物に挟まれた路地で、木箱やゴミ箱が雑多に積んであり、そこらの壁に口をあける通気口からは、篭った音が聞こえてくる。
常であれば雑然を極めたよくある裏路地なのだろうが、雨のおかげか、しずかな佇まいを見せている。ひたりと壁に取り付いた空調の室外機のファンが、ブブブと震えていた。
「傘なら持ってるヨ。余計なお世話ネー」
「そりゃァ失礼。それじゃあこいつはどっかの猫にでも差してやんなせェ。……ところで、迷子のチャイナ娘はこんな裏路地で何のお仕事ですかィ」
……迷子。その言葉に、神楽は機嫌を傾けた。それは、不本意な呼び方だ。ここがどこだか分からないのはほんとうだけれど、ここを真っ直ぐ突っ切って、どこか大きな通りに出れば、道なんてすぐにわかるだろう。それにこの……傘。万事屋を出た時から降っていた雨に、神楽はわざと傘を差すことをしなかったのだった。灰色な空でも、傘越しにみる青色よりはなんとなく、気分がいい。
日が出ていれば年中差していなければならない傘で半分になる視界は、いい加減に慣れたけれど。……それでもそれは慣れただけで、諦めたわけでも、すきなわけでもない。だから青色の裏地をしたそれに、神楽はすこし驚いて、それからすこしきれいでしずかな気持ちになったのだけれど、同じほどにそれへ反抗する気持ちが起こっていた。なぜか。
「好きなように歩いてただけアル。散歩ネ、散歩」
「見りゃあどんどん裏道を進んでくもんでね。売春現行犯かと……」
聞かず、のらりくらりとしゃべくる少年に、チャ、と神楽は傘の先端を向ける。きっと、心の中の領地争いで、後ろ側の気持ちが勝ったのだろう。さすがに少年も口を閉じた。
それでいい。すこしだけ高慢に思い、神楽は、くる、と一転させて傘をおさめる。けれどもし、自分が本当に撃ったとしても、何ということなく少年は弾を避けてしまうのかもしれないと考えたのは、ほんの一瞬だ。
「お喋りはそこまでヨ。何の用カ」
「迷子じゃねェんなら関係ない。それじゃ、人生をお大事に」
皮肉ったような言葉を最後に、頭の上で篭るように聞こえていた雨音が、ふと明瞭になる。ふたたび躰中に当たりはじめた雨粒と、踵を返して遠ざかっていく足音を、なぜかまだ足を止めたまま、神楽は聞いていた。
足元の小石を蹴ってみる。二、三度跳ねてまた転り、止まったそれは、神楽と同じに雨に打たれている。
万事屋へ戻れば、定春がとりあえずじゃれついてきて、扉のひとつも壊すんだろう。濡れた服は、新八が洗濯をしてくれて、濡髪をそのままにしていれば、きっと銀時が面倒くさそうに、けれどやさしい指でタオルを使ってくれるんだろう。そんなやさしい想像をした。
神楽は振り返った。青空を見せるその傘は、神楽のすぐ後ろに、かた、と置いてあった。
「………………」
膝を折り、しずかに柄へ手を伸ばすと、少年の声。チャイナ、と呼ぶのはきっと、名前を知らないからだ。はっとなって神楽が顔を向けると、雨に打たれて、黒い服の少年が立っていた。
薄いの色をした髪が、濡れて、ひたりと艶を放つ。
「――――江戸に住むなら覚えておきなせェ。この道の先には、人買いしかいねェんだ」
低めた声でそれだけ言って、少年は背を向け、歩き出す。
おとなしく拾い上げた傘を差した神楽は、その背の後を、しずかに歩いた。