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夏日

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 誰かの振るう草刈機のモーター音が、辺りに強く聞こえていた。

 それに張り合うように啼くのは、もうあと何日生きられるのか、分かりやすく限られたいのちを生きる幾匹かの蝉。背の高い樹木の影と、視界一杯に広がる水の入った水田のお蔭で、日差しの割には随分上出来の温度を感じている。……けれどそもそも風がないのだから、お世辞にも涼しいという言葉を遣う言葉出来ず。じっとりと額ににじむ汗は、止まるということを忘れてしまっているようだった。

 山崎は傍らに停められた車をチラと横目で見て、やっぱりエンジンをそのままにしていてもらえばよかった、と、今更の後悔をした。経費削減の叫ばれる真選組では、どうにもポンコツなそれしか借りられなかったのだが、今ひとつ気合の足りないエアコンでも、今は恋しくてたまらない。
 せめて、髪ゴムのひとつも持って来るべきだった。汗でべたつく肌に、半端に伸びた髪がとてもうるさい。


 ――江戸から小一時間ほど、車を転がした場所である。大した特徴のない、どこにでもあるような田舎の風景が、そこには広がっていた。
 のびのびと広がる水田。その合間に、思い出したかのように現れる集落。視界の突き当りには、緑茂るおおらかな山、振り返ってみれば、草いきれのする鬱蒼とした林……。そんな風景の繰り返しがどこまでも続いていそうな、おだやかな山田舎である。
 時刻はおよそ午後二時。一日のうちで、最も気温の高い時間帯だった。シンプルな青色の空には、同じくシンプルな白い雲がむくむくと湧いていて、どうせなら一雨きてほしい、と、山崎は考える。……と、その時。足音が聞こえたような気がして、山崎は林の中へ伸びる道を振り返った。

 樹木を分けて通るその道は、それなりに急な上り坂。今日みたいな日に一番上から自転車で走り降りたら、さぞ気持ちがいいだろう(ただ、下りきったところでブレーキかハンドル操作を誤ったが最後、自転車ごと田圃にダイブの運命が待っている)。
 聞こえた気がした足音は、結局そんな気がしただけだったようで、相変わらず、そこにはひとつの人影もなかった。肩を落として向き直る。これで何度目だろう、と、記憶を巻き戻し数えてみようとした山崎だったけれど、暑さにやられたのか、上手くいかなかった。

 土方は、まだだろうか――――?

 立っているのにもなんだか疲れてしまって、山崎は、昇り口の傍にあるポンプ井戸の隣に、へたり、腰を下ろした。一瞬感じた冷たさは、井戸というイメージがそう感じさせただけなのだろう、それはすぐに掻き消えて、実際には何も変わらない。いくらポンプを押しても水が出ないのは、実証済みなのだった。
 一層強く草刈機の音が響き、一層高く蝉が啼く。うわんうわんと、耳の中で、頭の中でこだました。


 早めの昼休みを終え、市中見廻りに出ようとしたところで山崎は、土方に呼び出されたのだった。
 命じられたのは、土方の外出の供。どこへ行くとも何をするとも何をさせるとも土方は言わず、ただ、ついてこい、と、それだけだった。急ぎだというのでそのまま土方の持ってきた車に乗ってしまったが、真っ直ぐにそれは江戸を出て、郊外へ向かう道を辿る。てっきりどこか『上』への用足しに行くものと思っていた山崎は驚いて、土方の顔を見た。けれどやっぱり運転席の土方は、そんな山崎に気付いても、何も言わなかったのだけれど。
 そして着いたのが、ここである。道端に駐車して土方は、乗っているか降りるかを山崎に問いかけた。そして山崎が降りると言うと、エンジンを停めてキーを持ち、ひとりで林の中へ行く道を上っていってしまったのだった。そこで待っていろ、と、そんな一言だけを残して。
 それから山崎は、ずっと土方を待っている。坂の上で土方が何をしているのか。それは分からなかったけれど。今は、待つことが山崎の仕事だった。山崎は立てた片膝に右頬を押し付けて、目を閉じた。


 波のように近くなったり遠くなったりして、けれど聞こえ続ける草刈機のモーター音。時々、ほんとうに時々、気まぐれのように吹く弱い風が、汗に濡れた肌を触っていく。
 直射日光を浴びていないだけ、まだマシなのかもしれない。けれど、確実に体力を奪われている、と、そう感じる。ふとした瞬間に力が抜けてしまって、とろりと溶けた自分の身体が、気化し、夏の空気に混じりこむ――山崎は、そんな空想をした。

 ふ、と瞼を持ち上げる。少し眠ってしまっていたようだった。長くとも、十数分の感覚。影の長さがほとんど変わっていないから、ほんとうに少しだけだったのだろう。
 顔を上げて、きょろと辺りを見回す。土方はまだ戻らず、音が一種類減っていた。草刈が終わったようだ。
 強張った首の筋を伸ばしていると、数間離れた道端の草むらに、猫がいるのを見つけた。白に、薄灰色の縞模様と斑がある。山崎には、賢い睛をした若い雄猫のように感じられた。山崎が気付いたことにその猫も気付き、じぃと見つめてくる。山崎も見つめ返した。

「あっ」

 そろり、手を伸ばして近付こうとした瞬間。猫は軽く逃げていってしまった。山崎から遠く離れた場所で一度止まり、振り返る。追ってこないことに安心したのか、猫は道を横切って田圃に降りる。背中をてこてこと上下させて、畦道を進んでいった。

「ナニ遊んでんだ」
「…………遊んでません」
「遊んでんだろ」
「だから、違いますってば」

 山崎が猫にちょっかいを出していたのを、見ていたのだろうか。けれど、やりとりはそれだけで、いつの間にか足音も立てずに坂を降りてきた土方は、さっさとドアを開けて運転席に乗り込んでしまった。すぐさま掛けられるエンジンに、山崎も慌てて助手席に飛び込む。土方は、少しだけやわらかな表情を浮かべていた。それは、屯所を出た時に較べて、ということなのだけれど。
(――――あぁ、そっか、)
 山崎は、どうして自分が土方の外出先を『上』だと思ったのか、その理由に見当をつけた。妙に強張ったその表情。昨日の手入れの時に見た、刀を振るう冷酷な睛のままの土方が、そこにいたからだ。


 土方は、来た通りの道を正確に戻っていく。横長の田園風景は後ろに流れ、街が近づいてくる。
 車内は無言だった。カーステレオとラジオはつかないようで、エンジン音と、それからエアコンの音だけが聞こえている。山崎も、土方も、しゃべらない。
 土方が坂の上のその場所で何をしてきたかなんて、山崎は訊かないのだった。……訊かないと、決めている。ただ自分は、あんな田舎に連れて行かれて、暑い思いをして、猫に逃げられた。それだけ。それで、いいと思っている。ほんとうだった。
 隣に座る土方から香るのが、いつもの煙草の匂いではなく、喉に絡むような香の匂いだとしても。山崎は、昇り口にあったポンプ井戸の反対側に立つ、石の案内に書かれた霊園の名前を忘れる努力をした。

 自分ではあのひとに安息を与えられない。そんなことは山崎には、もうとっくに分かっていることなのだった。自分の弱みをほんとうにひとに見せるようなことは、しない。するわけがない。そう知っている。それを悔しく思う気持ちも、もうどこかに消えて…………。

「……土方さん、」
作品名:夏日 作家名:アキカワ