蝶々
ひら、り。
――――唐突に、けれど穏やかに。左の視界の隅で、舞うように落ちてゆくものがあった。とっさに其方へ目をやる土方は、けれど、それを捉えることが出来ない。視線を向けた其の時にはもう、それは、残像だけを僅かに残して、掻き消えてしまっているのだ……まるで、逃げるように。
丁度、花びらや木葉や、蝶のような動き。視線をずらしたそのまた左隅で、ひら、とひるがえるように、それは再び落ちてゆく……何度でも。
チラチラと視界の隅を舞い続けるそれの色。何かに似ている、と、土方は思った。鮮やかな橙の。ほんの断片を横目に掠っただけなのに、それでもハッとして、思わず目をやってしまうような……。
『何か』――たぶんそれは、土方がまだ見たことのない『何か』なのだろう――。根拠などまるでなかったが、土方はそう考えた。『何か』に似た色のそれが、きちんとこの睛で見えやしないのだからきっと、連想したものだって、見たことのないものに決まっている。
夢の中か、誰かの噺の中で。土方の頭の中に構成された紛い物の『何か』の色に、それはきっと、似ている。きっとだ。土方は強くそう思い、柄にもないことを考えている自分に、笑った。
幻覚……そう、その『舞い落ちてゆくもの』が幻覚だということは明らかである。夜闇に包まれたこの小路で、あれほど鮮やかに見えるものなど、あるはずがないのだから。
そんなものが見え始めた自分は、ついにどこかおかしくなったのか。思う土方とはまるで関係なく、また一片、それは隅を舞った。
「副長、どうかしましたか、」
掛けられた声に、現実へ引き戻される。素直に声の方へ顔をやった土方は、傍らへ控える山崎の、どこか訝るような視線にぶつかった。山崎の後ろにも、土方の後ろにも、手入れの刻限を待つ隊士がごそりと立っている。そう広くはない小路だったが、真選組の一時待機場所としては充分だった。
……いや。その一言で、返事にする。……そうですか。山崎も一言呟いて、俯いてしまった。その顔が僅かに強張り、緊張の色がにじんでいるのを、土方は見つける。
「……。山崎、」
話しかけたのは、ふと、山崎なら知っているかもしれない、と、そんなことを思ったからだった。無駄なことばかりよく知っている。土方の山崎に対する認識はそういうものである。返事をするよりも早く山崎の顔が上がった。
「はい、」
「お前……これ、分かるか。橙色で、ひらひら落ちる」
「ひらひら……?」
突拍子もない土方の問いかけに、きょとんとした顔をした山崎だったが、一拍置いて、ふ、と笑った口元を右手で覆った。……さっきまで強張っていた顔が緩み、肩の力が抜けている。くく、と噛み殺す笑い方に、土方は片眉を跳ね上げた。
「何が可笑しいってんだよ」
「……だって、副長が『ひらひら』って……」
似合いません。つまり、そう言いたいのだろう。無表情に土方は、パシンと軽く山崎の後ろ頭を叩いた。
「ちったぁ真面目に考えろ。分かるのかよ、」
「え? そうですね……橙色、ですか? それで、『ひらひら』……」視線を上向ける山崎だ。
「そう、橙の――」土方が言うと、またそれは舞い落ちた。ひら、ひらり。ひら。
……桜の花びらなら、それは『はらはら』と形容されるだろう。雪の降る様子ならば『しんしん』だ。それなら、これは何なのか……。
「――――あぁ、副長。それ、蝶じゃないですか?」
そうじゃなかったら、火の粉とか。
視界の隅に留まっていた鮮やかな橙色のそれが、目の前を横切った――――。そう感じたのは、山崎がそう言った、まさに其の時だった。
「……蝶?」
「俺、なんかそんな感じの見たことありますよ」
「蝶、か……」
「きれいですよね」
「そうか?」
「夕焼け色で、いいじゃないですか」
それなら、そう思うことにしよう……。土方はそう思い、時計を見た。
――――刻限丁度。後ろを振り返れば、何人もの隊士が、土方の視線に気付き、見つめ返してくる。通りから届く薄明かり。けれど、その顔は、その睛は、何よりもよく見えるように思えた。裏口を固める沖田は、土方が『喧嘩』をはじめるのを今か今かと待っていることだろう。山崎の顔からも、緊張の色はすっかり消えていた。
「行くか、」
土方がぼそりと言い、足を進めれば、それへ付き従う十数人。小路を出れば、視界の隅でたむろしていた橙色のそれは、山崎によって与えられた蝶のかたちで、土方の周りを舞っていた。
ひらり、ひら、ひら。ひら、り。
土方がいつもより幾分厳かに、幾分愉しげにその言葉を言い放ったその瞬間。
……ひららと舞い回っていた蝶たちは、舞い上がり、飛び立った。
――――――御用、検めである。