昼休みまであと10分
その、通常は教師の弁当箱やら缶飲料やらちょっとした軽食やらが入れられている箱の中に、今は見慣れない──いや、ハデスの入れた覚えのないものが入っていた。
ハデス本人の昼食や、趣味と実益を兼ねたいくつかの薬品類を押しのけ、ででんと鎮座ましました、やけに豪華な蒔き絵の重箱。
冷蔵庫の前にしゃがみ込み、ドアを開けたまま、ハデスはしばし首をひねった。重箱の表面をつついてみる。冷たい。少なくとも、入れられたばかり、ということはなさそうだ。まるで、朝一番に入れておいたような。
と、そこまで考えて、その重箱に見覚えがあることに気づいた。
ぱたん、と冷蔵庫のドアを閉め、保健室の一角、いかにも「使用中」と言いたげなカーテンで仕切られた場所をのぞきこむ。
「ねえ、藤くん」
「……んあ?」
白いパイプベッドの上に寝転び、漫画本をめくっていた少年が、うるさげに振り返る。すっかり、保健室に居着いてしまった(何せ、そうしないと死んでしまうと本人が言うのだ)藤をじっと見ると、不審げに眉をひそめられた。
「何だよ?」
「君、もしかして、ここの冷蔵庫に、お弁当箱、入れた?」
「入れたけど」
「やっぱり……どこかで見たと思ったんだ。でも、いつ入れたんだい? さっきここに来たときには、何も持ってなかったよね」
「朝イチ。あんた、職員会議だか何だかで、いなかったじゃん」
「そう、だっけ。え、そんな時間に、お弁当だけ入れに来たのかい?」
「どうせここで食うんだし、教室に置いといてもジャマだろ。……ってか、何なんだよ一体。いいだろ弁当箱くらい」
「それはいいんだけど……そうか」
こくこくうなずくと、話は終わったとばかり、藤はまた漫画本に視線を戻す。
窓際にいつの間にか詰まれている漫画本や雑誌の類に、戸棚に隠されているスナック菓子。
そして今度は、冷蔵庫の中に、弁当箱。
当然のような顔でベッドを占拠する藤の背中に笑いかけて、ハデスはカーテンの外に出た。
机の上に広げていた、「気分がよくなるお茶」な試作品を片付けながら、この部屋にはずいぶんと自分以外の人間のものが増えた、と思う。
ヤカンにお湯を入れて火にかける。昼休みに備えて準備する湯呑みは、赴任当初から、いくつか買い足した。
今日は、誰が来るだろうか。いつものこう言えるのは、幸せなことだアシタバや美作以外にも来てくれるだろうか。
「ねえ、藤くん。今日のお茶はどうしようか……緑茶と焙じ茶と紅茶と、一応コーヒーもあるけど」
コンコンコン、とビーカーの代わりに茶筒を並べながら、のんびりとカーテンの向こうに声をかける。
しばらくの沈黙の後、
「……コーヒー以外」
「あれ、嫌いだった?」
「んなことねーけど、寝れなくなったら困る」
「……午後は、授業に出ないとダメだよ?」
「はーいはーい」
「もう……」
言いたいことだけ言う生徒に苦笑して、それでもハデスはカフェインの強い茶葉を避け、焙じ茶の蓋を開けた。
消毒液の特徴的な匂いに、香ばしい匂いが交ざる。
ふと見上げた壁掛け時計が指すのは、昼休憩の5分前。彼のクラスメイトたちがやってくるまでは10分ほど。
茶葉に湯を注ぎ、冷蔵庫の中の、二つの弁当箱を考える。
本当は、温められれば、いいのだけれど。今度、レンジの予算を申請してみようか、と思う。
「藤くん、お茶が入ったよ。そろそろ起きない?」
「んあー……」
「寝ながら本を読むと、目が悪くなるよ。ブルーベリージャムあげるから、出ておいで」
「いらね……」
「アシタバくんたちも、もう来るんじゃないかな?」
「……ああもう!」
ばさりと、勢いよく布が跳ね上げられる音と、苛立ちに少し高くなった声。
ハデスが振り向くと、仏頂面になった藤が、ようやく天岩戸から這い出てきていた。
たっぷりと中身の入った湯呑みを掲げて誘えば、その顔のまま、大人しく指定席について、目だけで飲み物を要求する。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
「子供じゃねーんだから」
行儀悪く、片手で掴んだ湯呑みをすする藤の目が、ちらりと時計を見上げた。ぴんと動いた長針が授業時間の終わりを指すのと同時に、チャイムが鳴り響く。
甲高いその大人しくに混ぜて、ぽつりと、藤が呟いた。
「もう少しゆっくりしたかったんだけどな、」
「うん?」
「……何でもね」
湯気の向こうに表情を隠して、いそいそと湯呑みの用意をするハデスを見る。少し低い藤の声を聞き取れなかったか、楽しそうな顔で振り向く教師に、生徒はもう一度、何でもない、と言った。
長針が一回り、もうじきに、昼休みの保健室は、ささやかながらも賑やかな常連に占拠されるだろう。
そのことに浮き立つ心はそのままに、けれど、少しだけ、他の生徒に向けるのとは違う笑みを浮かべて、ハデスは藤の髪に手を滑らせた。
「大丈夫、大丈夫だよ、藤くん」
一瞬触れて、すぐに離れたハデスは、ぱかん、と冷蔵庫を開けて、ふたつの弁当箱を取り出す。
そして、近づいて来る騒々しい足音がたどりつく前に、こう言った。
「いつだって、君とのんびりする時間くらい、あるんだからね」
机の上、真ん中に並んだふたつの弁当箱。
冷蔵庫から出したばかりのくせに、きっと暖かいにちがいない、などとうっかり考えて。
藤は、思わずハデスを窓から投げ捨てたい気分に襲われた。
昼休み。
勢いよく、保健室のドアが開いた。
作品名:昼休みまであと10分 作家名:物体もじ。