糖衣状矢印
たぶん、初めてのことだ、と思う。
小さいころ、気がついたときには、自分と周りの関係性というものは、どうしようもないほどに決まりきっていた。
自分と周囲を、矢印がつないでいる、と、藤は思う。それらはすべて一方通行で、それぞれに、身勝手な名前がついていた。
決まりとか。慣習ときあ。しがらみとか。
期待とか。
失望とか。
諦めとか。
それぞれ、別のキラキラした名前で化粧された誰かからの矢印は、甘い糖衣の向こうにたくさんの気に入らない名前を隠していて、自分からの矢印には、たったひとつ、どうしようもない名前がついていた。
ギブアンドテイクなんておためごかしはゴミ箱に投げ捨てたいくらいだが、周りは、胸焼けしそうなくらいに甘く味付けされた苦いものを、まるごと呑み込めと藤に迫ってくる。
その矢印はいつも一方通行、与えられるものは望まないものがほとんどで。望まれるものは返せなくて。
いつも藤は、突きつけられる矢印の、甘い表面を舐めるだけで、向き合うことはなかった。
何より、藤には。
たぶん──返すつもりが、なかったのだ。
だって、与えられるものはいつも、甘いものも苦いものも、「藤麓介という者」にしか向けられていなかったから、何かを返すことなど考えもしなかったし、そもそも、受け取ろうと手を伸ばすことすらしなかった。
でも。
初めてだった。初めて知った。
そっと向けられ、差し出された、一方通行の矢印。
他の誰もに向けられているのに、確かに、「自分」に、「藤麓介」に与えられる、やさしいもの。
見返りなど──藤がそれに何かを返すことなど求めていないと言いたげに、どこまで舐めても甘い、苦いものなど隠していないような、都合の良すぎる関係性。
たったひとつのその矢印につけられた名前を、ほかのものにキラキラと安っぽくまぶされた、粉砂糖のようなものと同じ言葉でなんて呼びたくもなかったが、藤は、それ以外に──「愛情」なんて陳腐なもの以外の言葉を、知らなかった。
諦めとか、憂いとか。
そんなものの後ろから、小さな自分が顔を出す。たったひとつ、誰にも言ったことのない言葉だけを口の中に閉じ込めて、そろりとその矢印に、手を伸ばす。その矢印を、向けてくれる相手を見つめている。
わかっている。とても甘い甘いその何かを、これ以上甜めるために口を開けば、きっとその言葉が飛び出すと。
わかっている。そのすべてを舐め尽くすまで、離すことなどできないかもしれないと。
例え、その一番奥の奥、最後に苦いものが待っていたとしても、止められないかもしれない、甘い、甘い落とし穴だ。
そろり、そろりと触れようとする手、そこに重なるように、自分から伸びる矢印を意識する。他のどれとも違う名前をつけてしまった。小さな矢印。
誰にも向けたことのない感情。
誰にもいうはずがなかった言葉。
自分は向けられたくなかったのに、今、誰かに向けられる矢印。
これは、わがままだ。
期待、している。
失望、したくないと思っている。
それでも、あの人は、受け止めてくれるだろうか。最後の最後まで、あの甘い気持を、舐め尽くさせてくれるだろうか。
初めて、2本の矢印を、向き合わせることができるだろうか。
甘さと苦さに痺れた舌が、たった一言を、飴のように転がし出す。
「なあ、先生──一生のお願いが、あんだけどさ」
──甘えても、いいですか。