柔らかなこの世界に[ニーナ]
失ったのが言葉で良かった。心底から、そう思う。
例えばそれが手足であったら、彼に触れられなかった。彼と共に歩けなかった。
例えばそれが音であったなら、彼の声を聞けなかった。彼の呼ぶ名も聞こえなかった。
例えばそれが、光であったのなら。
彼の顔さえ、見られなかったのならば。
見上げれば、薄汚れた天井のところどころに、ぽつんぽつんと灯る赤い電灯。
ニーナにとって……バイオ公社研究室の白い部屋で育った実験体にとって、それは最初は物珍しかったのだが、今はもうすっかり見慣れてしまった。
どちらであれ、それは、ニーナを閉じ込め削り取ってゆく世界のものである、ということに何の変わりもない。
そして、この世界が「そう」であることすら、実はニーナにとってはどうでも良い。
彼女にとって大切なことは唯、ひとつ。
リュウ。
彼が居る、それだけのことなのだ。
「うぅ」
「ニーナ? 疲れた?」
「うー、にゃ」
「そう? 疲れたら、ちゃんと言うんだよ」
「う」
気遣わしげにこちらを見て、それからにこりと笑った彼に、ニーナも笑い返して強く、強くリュウの手を握る。
笑うことも、誰かに意思を示すことも、誰かと触れ合うことも。
それらはぜんぶ、リュウが教えてくれたものだ。昔はニーナも知っていたのかもしれないけれど、いつか忘れてしまったのを、リュウが、取り返してくれたものだ。
だから、ニーナは当然、思う。
ニーナのすべては、何もかも、リュウのものなのだと。
リュウと出会うまでのことを、ニーナはうまく思い出せない。
覚えているのは、とても白く、白い光に照らされた無機質な部屋。その中央にひとつきり、置かれた処置台。
その固く冷たい器具がニーナの寝床であり、分厚いガラスの向こうの目に絶え間なく観察され続ける部屋こそが、ニーナの生きる空間だった。
そこで一体何があったのかを、ニーナはあんまり思い出せない。ただ、本能を引っかくような遠い恐怖が、そのわずかな記憶にまとわりついている。
ニーナの背に垂れ下がる、赤くグロテスクな「翼」は、そこで与えられたものだ、ということくらいしか分からない。
そしてそれすらも、今のニーナにはどうでもいいことでしかなかった。
その翼のために、リュウは「空」へ行こうと―――世界を開こうとしてくれているのだと、解ってはいたけれど。
ただ、リュウがそばにいてくれるのならば。そうして笑顔を向けてくれるのならば。
ニーナには、それで構わなかったのだ。
リュウがいるだけで、ニーナは嬉しい。
リュウといるだけで、ニーナの世界は光で溢れたものになる。
リュウさえいてくれるのならば、世界すらも、ニーナに優しいものだった。
たったひとり、リュウだけ。
だから本当は、ニーナは思う。
ぎゅっと強く、強く。ニーナに出来るだけの強さでリュウの手を握り締めながら、ニーナは祈る。
「空」が、とても遠いものであればいい、と。
リュウは、ニーナにとって、世界そのものだから。
ニーナは、世界の汚れを察知し、浄化するために造られたものだから。
ニーナは、リュウを、リュウのことなら、察知する。理解する。
とてもとても澄んだリュウ(世界)の中に、ただ一点だけ漂う染みを、ニーナはとうに見つけてしまっている。
そして、それが、自分の翼(ベンチレータ)では浄化できないものだと、解ってしまっている。
リュウが、「空」の先に、その染みだけを見つめているのだと、ニーナは、もうずっと前から知っているのだ。
ニーナを助けてくれた事実も、助けると約束してくれた気持ちにも、何ひとつ偽りも曇りもないと判っているのに、そのたった一点だけが、どうあっても消せやしないのだ。
ニーナの、優しくて小さな世界(リュウ)に開いた風穴が、どんなに手を握っても足りないくらいに、思い知らせてくれるのだ。
「空」なんて、遠ければ遠いほどいい。
ニーナが一生かかってもたどり着けないくらいに。
「リュ?」
「ん、ニーナ?」
「リュウ!」
「俺はここにいるよ。大丈夫」
そうしたら、きっと。
ニーナは、リュウという小さな世界の中に、ずぅっと閉じこもっていられるのに。
作品名:柔らかなこの世界に[ニーナ] 作家名:物体もじ。