竜
ちいさな少年を、そのころ唯一慰めてくれたのが、擦り切れたその絵本だった。
昔は立派な布だったのだろう表紙は薄汚れ、鮮やかな色を呈していたはずのインクは薄れ、文字は滲んでしまっていたけれど、それでも 。
その絵本だけが、少年に、夢見ることをゆるしてくれていた。
「……そうして、勇者は悪い竜をやっつける、旅に出ました」
小屋の中には、誰ひとりいないから。
自分がいるということを、自分が忘れてしまわないために、少年は声を出して、絵本を読む。
描かれた勇者の振り上げる剣に指を這わせ、時どき、何かを空想するように、視線を遊ばせながら。
すぐに読み終わってしまわないよう、ゆっくり、ゆっくりと、少年は絵本を読みすすめる。
「……とあるちいさな村で、勇者は、たくさんの村人に歓迎されました。『勇者さま、どうかあの竜を退治してください。でないとわしら は恐ろしくて、外に出ることすらできません』
村人たちは、たくさんの宝物や食べものを、勇者に差し出して頼みました。けれど勇者はそれを断って、こう言いました。『もちろん、 悪い竜は退治します。でも、この宝物や食べものは、いりません。私は、お礼が欲しくて竜を倒すのではなく、それが悪い竜で、人を困ら せるから、退治するのです』」
涙を流して勇者を拝む村人の絵。
そのページもひどく薄汚れて、きれいな水色で塗られていたはずの涙が、くすんだ肌色に混ざってしまっていた。
ちいさな指でそれをめくり、ふと少年は声と、手を止める。
何度も、何度も。
読んで、手を触れて、憧れたのだろう。この本の、もとの持ち主は。
勇者の真っ赤なマントはぼやけた薄紅色に、銀色に輝いていたはずの鎧は鈍い鼠色に。光り輝く剣は、まるで錆に覆われてしまったよう に、色を変えてしまっていて。
それを辿るように指を滑らせて、少年は、ちいさな声で、読み上げる。
「『私の鎧は、すべての弱い人々のための、勇気の鎧。私のマントは、すべての不幸な人々が託した、血潮のマント。私の剣は、我が愛す る姫が祝福を送った、聖なる剣。これある限り、どうして私が邪悪なる竜に負けることなど、あろうか』」
そうして、絵本の中、苦しそうに悶える竜と、自分の頭とに、触れて。
「……そうして、悪い竜は退治されたのです。勇気ある若者は、その手柄を持って国に帰り、愛する姫と、末永く幸せに暮らしたと言うこ とです」
読み上げて、ぱたんと、絵本を閉じた。
その裏表紙に描かれた、絶命した竜の首を手に、高らかに笑う、勇者の姿。
「……そういて、悪い竜は、退治されたのです」
膝の上に絵本を置き、少年は両手で、自分の頭に触れる。
―――否。正しくは、頭に生えた、2本の角、に。
「……竜には、角はないけど。でも、退治されるんだ」
つるりとした角は、触られても感覚はないけれど、触っていると、何だか温かいような気がして、これ、が、自分の一部だということが 、少年にはよくわかった。
「……角のある僕は、退治される代わりに、イケニエになる」
もう、ずっとちいさなころから、少年はそう言われてきた。
13の誕生日を迎えたら、彼はイケニエになるのだと。湖の向こうへ行って、村のためになるよう、頑張らねばならないのだと。
「……イケニエになるって、どういうこと? 退治される代わりって、どういうこと?」
その言葉は、不思議な響きを持って、彼の頭の中に居座ったけれど、誰も、その言葉の意味を、彼に教えてくれる者は、いなかった。
だから、少年は、擦り切れた絵本を手に、夢を見たのだ。
「僕は、竜をやっつけるのかな? マントと、鎧と、それから、剣で」
自分は、勇者になるのかもしれないと、少年は夢を見た。
勇気の鎧と、血潮のマントと、それから……愛しい姫の、祝福をもらった剣。
「でも、竜をやっつけるには、お姫さまを見つけなきゃ。お姫さまを見つけて、そうして、剣をもらわなきゃ」
そうすれば、きっと、竜を退治できるのだし、そうすれば、きっと。村の人たちも、褒めてくれるに違いないのだ。
そうして、愛する姫と、いつまでも、仲良く暮らすのだ。
「13歳になれば。まだ先だけど……13歳になったら」
色褪せてしまった勇者と、消えかけている竜を、もう一度撫でて、少年は絵本を開く。
「……昔むかし。あるところに、ひとりの勇気ある若者がいました」
そうして、自分がいることを忘れないために、自分だけに聞かせるために、声に出して、絵本を読む。
擦り切れてしまった本だけが、ちいさな少年を、慰めてくれていたから。
イケニエとして、湖の向こうの城へと連れていかれるその日まで、
少年は、愛する姫と、勇者になる自分を、夢見ていられたのだ。