罪と罰
彼がそう言いだした。
夜の闇は、薄ぼんやりとしたもので、仄暗いという言葉が似合うものだった。
手を伸ばせば、何かが腕にまとわりついてそのまま連れていかれそうな、ほのかに明るい闇。
そんな闇の色が彼は大嫌いなようで、シャッという鋭い音と共にカーテンが閉じられた。
そうすれば部屋を支配するのは、静寂と、外よりも暗い闇だけであった。
その闇の中で彼の意見に賛成するものはいなかった。
当然のことだった。
だって、自分を含め、彼以外にしゃべることのできるものはいないのだから。
この広い広い部屋の中で、生きているものは彼だけだった、動けるものは彼だけだった。
そうして、隠れ鬼は始まった。
彼が手に持ったカッターナイフに、疑問を持つものもいないままに。
自分に意識が、自我が、芽生えたのはいつだっただろうと青葉は思った。
青葉は犬のぬいぐるみだ。名前は彼がくれた。
彼がまだ今よりも小さかったころに、彼に買われて、この部屋にやってきたのだ。
あの頃、部屋にいたものはみんないなくなってしまった。
この部屋で今一番長生きしているものは、ものという言い方も変だが、青葉だった。
何故彼はカッターナイフを持っているのだろう。
青葉はそう思いながらも、彼に掴まれて、部屋の奥の本棚の後ろに隠された。
何故持っているのですか、などと質問はできない。
だって青葉はぬいぐるみなのだ。犬のぬいぐるみである。
しゃべることなどできない。
心は何故かあるけれども、彼の声を聞くことのできる耳もあるけれども、彼に何かを尋ねられる口は無かった。
隠されてしばらくしてから、彼が数を数える声が聞こえてきた。
きっとほかにある大量のぬいぐるみたちも隠されたのだろう。
隠れ鬼の、鬼はもちろん彼だった。
だって、彼以外に動けるものはいないのだから、探すことのできるのは彼しかいないのだから。
「きゅーう、じゅー!」
もーいいかい?と、彼が聞いた。
それに応える声はなかった。
それでも彼は探し始めたようだ。
部屋の、青葉がいるところとは全く遠いところから、「みーつけた」という声が聞こえた。
そして、それに重なって聞こえてくる、ぶちり、ぎちり、ばり、という音。
彼の持つカッターナイフの役目をそのとき青葉ははじめて理解した。
彼はまさに鬼の役目を全うしているのである。
見つかれば、鬼に食い殺される。
青葉はかすかに焦った。もちろん、感情が外にあふれ出ることなんてない。
そうしている間にも彼はどんどんと青葉が隠れている場所に近づいてきた。
ぶち、ぷつん。
かすかな音とともに、青葉の目に赤い破片が飛び込んできた。
それは、彼が最近気に行っていた赤い目の猫のぬいぐるみの、目玉の部分だった。
彼はどうしてこんなことをしているのだろう。
人形遊びなんて嫌になったのだろうか、ここには溢れかえるほどの人形やぬいぐるみがあった。
それらを全て壊してしまうつもりなのだろうか、新しいものを買ってもらうつもりなのだろうか。
それならば、必ず壊されるのは自分だった。青葉だった。
だって、青葉は一番古いぬいぐるみだ。もう薄汚れて汚くなっている。
彼の部屋を訪れるものは、そんなもの捨てたら、というほどに汚れきっているのだ。
もうきらいになってしまったのだろうか、飽きてしまったのだろうか。
彼に愛されないのならば、青葉に存在価値はない。
きらいになったのなら、壊してくれてかまわない。
彼に嫌われる自分なんてどこにもいらない、いない、いない。
「あおばくん、みーいつけた!」
ばぁ。
彼の姿が視界に入る。
本棚の影から青葉が引っ張り出されて、彼の手の中におさまる。
彼の後ろには、引きちぎられた猫のぬいぐるみの腕があった。
カラン、音がした。
カッターナイフが、彼の手から落ちた。正確には、彼が落とした。
「あおばくんいがい、いらないんだよ。」
にっこりと、彼が笑った。
青葉をこの部屋につれてきたときから変わらない笑顔だった。
「あおばくんに耳があったらよかったのに、心があったらよかったのに。」
突然、彼はそんなことを言い始めた。
「そうすれば、ぼくのこえをきかせることができたのに。
ぼくのためにきずついてくれることができたのに。
もしも、もしも、あおばくんに目があったら。」
僕のために、泣いてくれただろうに。
あぁ、あぁ!!
僕には耳があります、心もあります、意識が、自我が、目が、両の目玉も、腕も、あります、あるのに。
なのに、声もなければ、耳や心や目玉や腕につながる神経がない。
だから彼に届かない、何も届かない、声も涙も腕も心も。
あぁ!なんて悲しいことなのか!これは悲劇だ!!
しかし、青葉が叫ぶことはなかった。
ふうわり、と、彼が笑った。
冗談だよ、と言った。
「ぼくのせいできずついてくれるきみがいれば、それでじゅうぶんだよ。」
彼はそう続けた。
「わかってる、きみのいいたいこと、きみのきもち、なきたいのになけないこと、とどかないうで。
ぜんぶ、ぜんぶわかってるんだよ。きづいてたんだよ。
それでもね、とどかないんだって、きづいて、かなしんでいるきみのかおがみれれば、それでじゅうぶんなんだ。」
彼は僕が自我を持っていることが分かっているのだろうか。
伸ばしても動かない腕を理解しているのだろうか。
このビーズの目玉が涙を流さなくとも、心は泣き叫んでいることを知っていたのだろうか。
わからない、わからないけれども。
「つぎは、あおばくんがおにになるばんだよ。」
引き裂かれたぬいぐるみだらけの、真っ暗闇のこの部屋で、動いているのは彼だけだった。
心は二つだけあった。
青葉の腕が、彼の背中にまわる幻がみえた。
けど、それは気のせいだった。
ねえ、痛いよ。
ぽつりとつぶやいたのは、青葉か彼かどちらもか。
罪と罰