そして僕らはすれ違う
わかってない、わかってないよ、帝人くん。
床に打ちつけた背中と後頭部が痛い。しかし身動きすら許さないように両手をひとくくりにされ押さえつけられた。
「わかってないよ」
この子の余裕の無い声など何年ぶりに聞いただろうか。親無し子が行くような施設で出会ってから帝人を本当の兄のように慕ってくれた。帝人が16という年齢で施設を出ざるをえなくなった時、足に縋りついて「置いていかないで」と人目も憚らず泣いてくれた愛おしい子。そんな彼は帝人が施設を出た年齢になった途端、帝人の住むアパートに押し掛けてきた。ずっと一緒だよと得意げに笑った顔を帝人は呆気にとられ、けれど「しょうがない子だ」と苦笑した。子供が帝人にしか甘えないように、帝人も子供に傍目でわかるほど甘かったのだ。しかし、見た目は平凡でも好奇心と人一倍ある非日常への執着で、帝人は世間に大っぴらにできない仕事をするようになり、そのせいで子供に迷惑をかけたこともある。しかし彼はとても頭の良い子であったから、帝人が知らぬまに処理をしていたりするから、帝人は少しだけそれが辛かった。そんな帝人を子供は何時だって笑っていた。「俺は帝人くんの役に立ちたいんだ」と端整な顔を甘く緩ませて言った。勿体ないよと帝人が告げても、子供はそんなのどうでもいいことだと笑い飛ばす。帝人の憂いも哀しみも子供には本当にどうでもいいことだった。子供はただ帝人の傍にいたかったのだ。幼いころからずっとずっと暖かく子供を受け止めてくれた帝人の傍に。その執着と呼べる想いを、帝人は気付いていた。その眸に映る情の名を帝人は知っていた。それでも帝人は彼の未来の邪魔になるつもりは一欠片も無かったのだ。
「俺は帝人くんが好きだ好きだ愛してるんだ。帝人くんの為なら何だってするよ。それが怖いことでも痛いことでも帝人くんの為なら俺には全部幸せなことだ。だから帝人くんも俺を欲しがってよ愛してよ。どろどろに俺の愛に埋もれてよ。そうしたら窒息するぐらい溶かしてあげるから。愛してるんだ愛してよねえ帝人くん」
唇と唇が触れ合いそうなほど近くで愛を吐く子供、――――否、もう子供ではないのだ。帝人を押さえつける手は帝人よりも大きくなって、力だってきっと敵わ なくなっている。低く掠れた声は大人のもので、覆う影が帝人をすっぽりと隠してしまう。本当の兄のように慕ってくれて、行かないでと足に縋りついた幼き子 は、何時しか帝人の背を追い越し、帝人の知らない目をするようになっていた。紅い眸が欲に濡れ、その視線が注がれるたびに震える背筋を唇を噛み誤魔化し た。そうだ。彼が向ける愛の意味に帝人が気付いたように、彼もまた帝人がそれを知りそして知らない振りをしていることに気付いていたのだ。帝人が彼をずっ と見守っていたように、彼も帝人をずっと見ていたのだから。
(嗚呼)
帝人は嘆く。均衡を壊した彼を。振り払えない自分を。どうしようもなく薄汚れた歓喜に打ち震える醜い身体を。
(僕だって君を愛している。情欲に濡れるその眸に抱かれる自分を何度想像したことか。けど僕は臆病で卑怯な人間だから、君の未来を憂う振りをして、後先の解らない未来に踏み込むことを恐れたんだ)
「愛してる」
結局帝人は逃げた。受け止める振りをして目を逸らす。視界が闇に染まる前に見えた彼の顔は哀しみと苦しみと愛に満ちていた。ごめん。ごめんね、愛おしい子。僕はやっぱり弱くて卑怯だ。
「――――ずるいよ、帝人くん」
震える音が吐息の共に落ちてきたかと思うと、激情が唇を覆った。逃げる舌を追いかける熱の塊。熱い、熱い。いっそ気持ちもこのまま流れ込んでしまえばいいのに。
(そうしたら君を傷つけずにすむのに)
作品名:そして僕らはすれ違う 作家名:いの