Stellar
「飛んでいない。落ちただけだ」
むすりとしながらそう答えた三成に、病室へ入ってきた相手はヒヒ、と小刻みに笑った。
三成の住まう養護施設は、大谷という院長が経営を行っている。
見舞いにきた男はその院長のひとり息子で、名を吉継という。まだ成人を迎えて間もないような年ごろの青年だが、生まれてから常に親の仕事のかたわら、年端もいかぬ子供たちの幸と不幸を見続けていたのが影響してか、年に似合わぬ老成した雰囲気を醸し出す男になった。
近頃では院長代行の権限すら担う非常に頭の切れる青年なのだが、その雰囲気とあまり開放的とはいえない性格からか、子供に好かれることは少なかった。
その吉継に珍しく懐いたのが、数年前に施設へやってきた、ひどく醒めた顔をしたこども――三成だった。人に慣れない眼をした、周囲の子供たちとも一線を画すようなこどもが己にだけは近寄ってくるものだから、吉継も何やら放ってはおけないような気分にさせられてしまった。食の細いこどもを宥めて食わせ、風呂に入れば髪も乾かさないのを膝の上に乗せて拭いてやり、放っておけば眠らないのをまったく棒読みの本の朗読でなんとか寝かしつけたりしているうちに、見事にしっかりほだされた。
そうして今では保護者と庇護者でありながら、年の離れた友人でもあるような、他の誰も代わり得ない関係を築いている。
「いや、さすがの我も連絡を受けた時には肝が冷えたわ。旅先から飛んで帰る羽目に合うた。ヌシは昔から逆上すると厄介なこどもであったが、よもや身投げの真似までするとは思わなんだ」
病室の寝台の傍へ備え付けた椅子に座って、吉継が揶揄する口調で言う。
「言うな。」
三成が寝台の上に寝転がったまま顔を背けて苦々しく答えたので、吉継はその表情を値踏みするように眼を細めた。
「不本意か。ということはやはり原因は、アレか」
三成はきゅっと唇を結んで答えなかったが、それがすなわち答えだった。
吉継は数カ月前の春を思い出す。
その日、入学式へ向かったかと思えばすぐに院へ戻ってきた三成は、自室には戻らず吉継の部屋へと駆けこんできた。
真っ青な顔色をしながら、眼だけは赤く染めあげて、かたかたと身を震わせていた。見たこともない様子に吉継が何事かと腰をあげた途端に、三成はそのまま床へ倒れ込んだのだ。
熱に魘される三成を介抱しながら、吉継は式へ向かう途中で何が起こったのかを聞いた。
突然彼の中で暴れだしたにくしみの話を。
「吉継、こんなことは、だれにもあるものなのか?」
熱に朦朧とした三成は、頬を火照らせ、眼を潤ませたとても幼いこどもの顔をして吉継を見上げた。この少年には珍しい、やさしく差し伸べられる手を待つような、心細げな表情だった。他の者なら肯定を返して、そんなのはなんでもないことなのだと言ってやりたくなっただろう。
しかし、
「イヤ、聞かぬな。おかしなことよ」
吉継は三成の問いには正直に答える。子供に対する誤魔化しを一切しない吉継の態度は、一部の施設職員や子供たちからは敬遠されがちだったが、三成はその偽りのなさにこそ懐いていた。
そうか、と頷いた三成は答えを知っていたようだった。そのまま目蓋を閉じて、深く眠り込んだ三成は、翌朝目覚めた時にはすでに自分に起こった変化を受け入れていた。
沈黙を貫く三成に対して、吉継はこれみよがしに溜息をつく。
「理由がなくとも虫が好かぬということは多くあれど、ヌシのそれは極端よなァ……」
一拍置いて、問う。
「学び舎を変えるか、三成?」
すぐさま驚いた顔で吉継を見返した三成は、その表情に本気を見出したのだろう。
この年上の、保護者であり友人でもある男をじっと見つめ、やがてぽつりと呟くように答えた。
「必要ない」
そう答える様な気はしていた。
「しかし、なァ。三成よ、」
吉継は、寝台に散らばった三成の柔らかな髪をそっと撫ぜながら、くぐもった声で続けた。
「また同じようなことがあらば、我はその原因とやらも空へ放り投げてしまうであろうな」
昏い色を湛えた眼を三成に注ぐ。
三成は、小さく顔を歪めた。
「やめろ。お前が手を汚す謂われはない」
「アダ討ちよ、正当であろ?」
ヒヒヒと哂いながら告げる男の顔に、うっすらと浮かんだ焦りを見てとって、三成は息を吐いた。しかたのないやつだ、とでも言いたげに。まだ線の細い少年と、すでに成人した男の態度としては不可解なものだが、彼らの間ではこれが普通なのだ。
「もうしない」
「……しかし」
「もうしないと言っている」
吉継は断言した三成に視線を落とす。その透き通る色をした眼はまっすぐにこちらを見返し、虚勢ではないと語っている。
三成には確信があった。
昨夜、病室の扉越しに交わした言葉を思い返す。
アレが吐き出していった苦い呼び声を思い出せばそのたびに、三成の腹の底で蠢くモノは少しだけ満たされて息を潜めた。
このばけものを飼い馴らすことは出来ずとも、あの声を餌として撒いて宥めれば、あれほどに我を失うことは避けられよう。三成は怪我と引き換えに、ひとつの成果を手に入れていた。
(―――傷つけて やった)
それでも納得できないらしい男が、唇の端を歪めて問いかける。
「いっそ離れたいとは思わぬか」
「無駄だ。……それに目の届かぬ場所にいて、あれが安穏と過ごすことなどゆるさない」
迷いなく答えるものだから、本人にしかわからぬ感覚らしいと溜息をついて、吉継はこの案を取り下げるしかなかった。
「それとな。院長代理として一応聞くが」
そう前置きをしたのは、これも答えがわかっていたからだ。
「警察沙汰にする気はあるか?」
保護者の提案の仕方とは思えぬ雑な問い方をすれば、やはり三成は、不思議そうな顔をした。そういった素直な表情をすると、普段は険しい色に隠されがちな顔立ちが、人目を奪うほどに整っていることがわかる。
ぱちぱちと瞬きをした三成は、かすかに首を傾げた。
「私が自分から落ちたのだ。なぜそんな話になる?」
あれだけ疎んでおきながら、機会に乗じて相手を排斥することなど思いもつかぬという様子に、吉継はやれやれと首を振りながら胸中で溜息をつく。
不器用なことだ。稀有な心を持ちながら、周囲の理解を得ることに対して無頓着にすぎる。
だが、掌中の珠が他者にはただの石ころにしか見えぬらしいことに、吉継が感じるのは怒りではなくあまい優越だった。
他の誰が知らずとも、吉継には星の在りかが見えている。
「あいわかった。―――今はおとなしく休め」
言いながらゆるりと頭を撫でてやれば、三成は安心したようにくあ、とちいさく欠伸をした。