蒼褪めた、
何がどう酷かったのかと問われれば返答に窮してしまうのだが、兎に角酷い夢を見たのだ。肌に貼り付く寝着と、汗の感触が堪らなく気持ち悪い。悲鳴をあげて起きた訳ではないので、妻を起こしてしまう事はなかった。外からは月の光が射し込んできていて、深夜だというのに少し目映い。何処かで猫が鳴いていた。ふと、私は外へ出たくなった。蒼い月の光に誘われるようにして寝具から抜け出し、なるべく音をたてないようにして玄関を抜け出した。
外は、満月だった。
日付は疾に(とうに)変わっていて、道に人の姿はない。何だか私は、無性に楽しくなってしまった。誰もいない深夜の道、蒼く妖しい月の光、耳に痛い程の静寂、――黒い男の姿。視界に紛れ込んだ異物に、私は動きを止めた。まっすぐ此方へと歩いてくる。折角私一人だったのに。男はどうやら提灯を灯しているようだ、時代遅れ過ぎる。薄ぼんやりした灯りに浮かび上がった提灯の紋様を、私は知っていた。あれは五芒星、武蔵晴明神社の紋様だ。つまりあの男は、
「何をしているんだい関口君」
京極堂だ。
「君こそ何をしてるんだこんな夜中に」
「僕は良いんだ、早く質問に答え給え」
僕が先に尋いて(きいて)いるのだよ、と京極堂が口にした。提灯がふわりと揺れて彼の手を離れ、私の周りを漂った――気がした。そんな事あるはずがない、提灯が空を舞い辺りを漂うなどと子供騙しにも程がある。私は子供ではない。勿論目の前のこの男も、だ。
月が隠れた。
「月が綺麗だったから見ようと思って」
「月は人を惑わすと言うぜ」
「僕が惑わされたと君は言うのか?」
「そうじゃなけりゃ君はどうして庭で見なかったのかね。まさか僕が歩いているのを感知した訳ではあるまい。ああ、とうとう鬱の他に夢遊病まで発症したのではないだろうね?これ以上持病を増やしてみたまえ、雪絵さんがあまりにも不憫じゃあないか」
言いたい放題言ってくれる。
「第一君は、《蒼い月の光に誘われるようにして》外へ出たんじゃないのかい?」
「あ……」
言われてみればそうである。私は数度瞬きを繰り返して目の前の男を見つめた。
―何故わかったのだろう。
見つめる私の視線を真っ向から絡め取り、京極堂は小さく笑った。空気が少し振動したように思う。私と彼の距離は数メートル程離れていて、表情の細かな所までは見えなかった。
「逆説(さて)、関口君。まだ月の光を浴びるつもりなら僕に付き合わないか。良い酒で酒盛りをしていると榎さんが言っているのだよ。全く、木場の旦那と二人で飲めば良いものを、わざわざ電話を寄越して千鶴子を目覚めさせたのだ。行って説教の一つでも落としてやるつもりなんだが、あの人が猿をご所望なんだよ。つまり、君だね」
「…僕を人身御供にする気かい?」
そう問いかけると京極堂は笑った。どうやらそのつもりらしい。だが私には断る理由がない上に、月の魔力―実際月夜にはおかしな事件等が多い―に当てられたお陰で目が冴えてしまっている。今家に入れば雪絵を起こしてしまうのは目に見えている。
私は頷く他、なかった。