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塩焼さばと
塩焼さばと
novelistID. 17471
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36.7℃

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それは、うららかな春の午後のことでした。



「しつれいしまーす、団蔵でー……あ」

昨夜終わらなかった帳簿の計算をやってしまおうと会計室を訪れた団蔵は、襖を開けて驚いた。

誰もいないだろうと思っていた室内には、見慣れた深緑。(入室時の挨拶はもはや癖のようなものだ)
会計委員長である潮江文次郎の姿があった。


「潮江先輩、いらしてたんですかぁ?」

「……」

返事がなかったが、別段気にしない。
文次郎は計算に集中すると、時折周りの音が聞こえなくなることがあるからだ。


「いつからいたんですか?あ、もしかして徹夜とか」

また善法寺先輩に怒られますよ、と軽口を叩きながら団蔵は自分の担当する帳簿を手に取った。

委員会の時、全員の座る位置は大抵決まっていた。
長机の上座に文次郎、その右手に三木ヱ門、左門。左手に団蔵、それから佐吉が座る。(本来は佐吉、団蔵の順だったのだが、団蔵のあまりのミスの多さと字の汚さで交換させられた)

この日の文次郎もいつもと同じ、長机の上座に座っていた。
それに倣って、団蔵もいつもの位置に座る。
文次郎の左手側。

「でもよかったー、実は僕、まだ帳簿の計算終わってなくて。よかったら手伝ってもらえませんか…て、先輩?」


拳骨の一発くらうかも、と思いながらちらりと文次郎を伺い見た団蔵は、不思議そうな顔をした。



文次郎の両目が、閉じられていたからだ。


「…あれ?せんぱーい」

一層近く覗き込んで、呼び掛ける。返事の代わりに聞こえるのは、微かだが規則正しい呼吸音で、手に持ったままの筆はもう墨が乾き始めていた。


「え、寝てる…?」


団蔵はまた驚いた。
こんなのははじめてのことだった。
地獄の会計委員長潮江文次郎が、会計室で居眠りをするなんて。



「……う、わぁ」

普段忘れてしまいがちな精悍な顔立ち。
まぶたを縁取る睫毛は伏せれば案外長く、眠っている間も無くならない眉間の皺に少し笑う。



(…疲れてんの、かな)

そういえば、迫る予算会議に向けてここ数日は特に忙しかった。
下級生の団蔵でさえも、自室に戻れば泥の様に布団に倒れ込むほどだったのだから、委員長である文次郎の疲労は自分の比ではなかったのだろうと思う。


文次郎を起こしてしまわない様、握られたままの筆をゆっくりと外して、硯箱に戻した。

改めて見つめたその寝顔。



たぶんそれは、どうにも抗いようのない衝動と引力だ。
知らぬ間に、ゆっくりと、しかし確実に引き寄せられている。


「…無理、しないでくださいね」


不安定に傾くこめかみにそっと、団蔵は押し当てるように口付けた。

硬い髪の感触を微かに感じて、ゆっくりと唇を離す。




仄かな暖気を含んで、ふんわりと膨らんだ優しい空気。
薄紅色なのは愛おしい春の気配と、真っ直ぐに結ばれた文次郎の唇だ。
それからきっと、自分のそれも。




「…………ッ、!」


途端に顔が熱くなった。
目の前の文次郎は変わらず、細い寝息を立てている。

しっとりとしたこめかみから、唇に伝わった確かな熱。
恐る恐る自分の唇に触れれば、それは未だしっかりと、痺れるようにそこにあって、それがより一層、団蔵の羞恥を煽った。

(……~ぼっ、僕…なにしてんだ!!!)




「……う、うあああ…っ」

団蔵は堪らず、勢いよく開けた襖もそのままに会計室を飛び出した。
ばたばたばた…、と足音は次第に遠くなる。




「……っ…何しに来たんだ、あのバカタレは」

文次郎が目を醒ましていたことなど、知る由もなく。




36.7℃


それははじまりの温度
作品名:36.7℃ 作家名:塩焼さばと