街灯に明りがともる前に
それは悲しいことではないのだと、望まれた結末なのだと、何千回繰り返してみても無意味だ。夕暮れの刹那に、深夜の静寂に、雑踏の隙間に、感傷はただ唐突に俺の心を鷲づかみにし、握りつぶす。
あのひとがいない。
風景が滲む。零れ落ちそうになる涙を右手で押さえながら、逃げ込むように大通りから細い路地へ急ぎ入る。
ビルの壁に背もたれると、俺は己の感情を落ち着けるために深呼吸を繰り返した。
失われることは、なぜこれほどの痛みを伴うのだろう。
何度も考えた。答えはなかった。これはただの感傷なのだと、30を超えた男が己のために流す涙は滑稽だと、繰り返し、繰り返し己に言い聞かせた。
それでも、大抵の場合この努力は功を奏さなかった。それは今日も同じだ。涙はとめどなく流れて落ちて、乾いたアスファルトの上に黒い染みを作る。
あの人がいない。あの人がいない。あの人がいない。
その事実は、何度でも何度でも俺を打ちのめすのだ。
歪んだ視界に通りを行く人々が映る。
それは川を流れる水のようだ。途切れることはない。無尽蔵に存在するような人いきれの中に、あの人はいない。どれほど目を凝らしても、何年待ったとしても、この流れの中に、あの痩身を、丸められた背中を、白い髪を見つけることはない。
「バカか……俺はっ……!」
当然だ。あの人は死んだのだから。己の望むまま、赤木しげるのまま死んだのだから。
そうしてあの人は俺の中に、麻雀の戦略の中に、誰かの生き方の中に己を忍び込ませることを選択した。それは間違ってはいなかった。赤木しげるは永遠となるだろう。俺が死んでも彼の伝説は、彼の生き方は、彼の心は残るのだ。赤木の遺伝子は、墓の欠片を握っていったバカ者どもの手によって、すべての熱に憑かれた人間の心に、此岸の果てにまで流布する。
それでも俺は悲しいのだ。あの人がいないことが。ただあの人の肉体がこの世に存在しないと言う事実が俺を痛めつけるのだ。
常に行動を共にしたわけではない。むしろ行方さえ知れない時の方が長かった。こちらから連絡をしようと思わなかった期間もあった。
それでも、この痛みは嘘ではない。幻でもない。唐突に訪れ、ただ俺を赤子のように泣かせ、何も出来ない存在に変える。多分救いはない。死ぬその日まで、永遠にこの痛みから逃れる術はない。
俺はずるずると滑り落ちると、その場にしゃがみこみ、膝に顔を埋めた。
誰彼時の刹那、すべての影は消え、境界が曖昧になるが故に人は俺に気付かない。行く先を持つが故に目を留めることはない。
だから今、夜が来る前に。街灯の明りが灯り、俺を照らし出す前に、俺は涙を止めなければならない。けれど、俺には無理だった。出来るとも思えなかった。
喉の奥で、俺は『誰か』とつぶやいた。
誰かこの暴風から俺を救い出してくれ。誰か涙を、痛みを、悲しみを、奪ってくれ、今すぐ。
誰か。
街灯に明りが灯る前に。
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ちょっとした補足
天さんだったら涙を奪ってくれるのかなあと思ったんだけど、やっぱりこの感情はひろの物であって、永遠に抱えつづけなければならない、いや、奪ってくれと望みながら、最後の最後で渡すことは出来ないと、俺のものだと言うのではないかと思ったので出しませんでした。多分救いはない。でも、死ぬまでそれと付き合い続けることは、不幸ではないのではないかと思います。
作品名:街灯に明りがともる前に 作家名:ミシマ