世界の中心で、
風が、薔薇の香気を運んでくる。
どうしても自宮でじっとしている気になれず、自宮の前、全ての宮と聖域を見下ろせる場所へと歩く。
金色の髪が風に巻き上げられ、揺れた。
風が早い。
聖域の空気が歓喜に歌っている。
彼女が帰還したのだ。
この、聖域に。
感慨は驚くほど無かった。
彼女の兵はたかが十に満たない青銅聖闘士。
常識的に考えれば倍以上の黄金聖闘士が護るこの十二宮を突破してこれるとは思わない。
それは誰もが信じている、事実である筈だった。
「女神を護る為の黄金聖闘士が、負けるはずは無い、か」
自嘲じみた笑いが口に浮かぶ。
こうして下を見下ろしていると、世界の全てを見下ろしているような錯覚に陥る。
それも仕方のない事と思えた。
この聖域は女神の加護を得て存在している、地上に残った数少ない聖なる地なのだから。
そして、聖闘士にとっての世界とは彼女のために在るべき物だ。
彼女と、世界中の愛と平和の為に。
それ故の、女神の聖闘士なのだから。
「女神よ、だが私は貴女を裏切った」
女神の為の戦士でありながら、女神を裏切った。
故に、そのうち自分が罰せられるだろう事は解っていた。
死後の後まで続くだろう汚名すら、承知していたのだ。
それでも。
「……私は私の正義を貫く」
守りたいものがある。
守らなければならない物がある。
誰よりも正しく在ろうとして、壊れていったものを知っているから。
「……サガ」
今教皇の間にある彼も、元は女神の聖闘士として何処までも正義を貫こうとしていた。
彼は気付いていなかったのだろうか。
光を強く、強くすればするほどその影も深さを増すと言うことに。
それとも気付いたときには、遅すぎたのだろうか。
己の罪を悔い続ける白い彼と、己の望みの儘に世界を統べる黒い彼。
どちらの彼も己の対、もう片方の存在を否定し、忌み嫌い、拒絶している。
だが、そのどちらもが、彼であるのだろうと思っていた。
神ならぬ人の心にはどうしても闇が生まれる。
だと言うのに彼は心に出来た闇を受け入れられず、結果心を二つに裂いてしまった。
そんな風になってしまうまで、何も出来なかった自分が悔しくて、
幼かった正義や、世界が壊れていくのが哀しくて。
そして、何の救いも無いことに絶望した。
彼と同じく二つに裂けた世界を、壊れた正義の中から選ばなければならなかった。
女神か、彼か。
そして、選択したのは間違いなく自分なのだ。
「あなたの下に付いたのは、私の選んだ事……」
そうして、この聖域を偽りで塗り固め、仮初めの平和を築いてきた。
例え砂上の楼閣だと解っていても。
今、自分にとっての世界の中心は此処なのだ。
それも終わる時が来ているのだろう。
彼女が、此処に来る。
その瞬間、植物達の、大地の微かな悲鳴が聴覚ではなく第六感に響いた。
日頃から植物に親しんでいた自分には、それはまるで本当の悲鳴の様だった。
胸を抉る、哀しみの声。
この聖域の真の主、世界を護る女神が傷付けられた事を嘆く声。
黄金の中でも感覚の鋭い者達は、それに気付いたかもしれない。
しかし、彼等は動かない。
自分と同じく、それぞれの思惑を持って宮を護るだろう。
ふと、空を仰ぐ。
黄道十二宮を刻んだ火時計に、次々と青白い炎が灯った。
星座の数と同じ、12個。
それが消えた時が、あの少女の命の終わる時、と言う訳か。
未だ幼い青銅の子供達如きに負けるとは思わない。
しかし、戦女神であり人の守護者である彼女に勝てるとも、思えない。
それはいっそ予知にも近い感覚だった。
「サガ」
小さく、階上に居る彼の名を呼ぶ。
今一度、会うことは叶わないかもしれない。
教皇の間に座した彼は、おそらく処刑の時が迫った死刑囚のような面持ちで佇んでいるのだろう。
ほんの僅か、振り返る。
瞬く間に階段を敷き詰めた魔皇薔薇の紅が、目に痛い。
「…………、サガ」
最後に、祈る様に彼の名を呼ぶ。
本来祈るべき女神の加護は、おそらくとうに己には無いだろうと思っていた。
「……」
唇の動きだけで、たった一つ胸に残った真実を紡ぐ。
もう二度と、彼に告げられる事はないだろう言葉。
もうじき彼等が来る。
真実の、女神の聖闘士達が。
荒れる風に嬲られ、薔薇の花びらがひらり、舞った。
*
世界の中心で愛を、というお題で書いたもの。
彼にとっての、世界の中心。
一人で、捧げる愛。