ハニートラップ
甘い匂いがする。聞き覚えのある声が、耳元でそう呟いた。低めのそれは、かすかな吐息とともに邦枝の耳朶を撫でる。
背後をとられたというのとは別の緊張によって、邦枝は一瞬にして身体を硬直させた。
その声の持ち主を知っているからこそ、崩れ落ちそうになるのをどうにか踏ん張る。振り向くことも出来ずにわずかに俯かせた顔が、熱くてたまらない。
「な、なななな、なに…?!」
最初の一文字で声が裏返る。どもってしまいながらも、さっさと身を翻すことの出来ない正直な自分を呪った。
至近距離、それも鼻の先ほどの距離に男鹿の顔があるのだと思うと、どんどん体温が上昇していく。
「いや、なんか。」
男鹿の気配がさらに近くなったような気がして横目で見ると、焦点があわなくなりそうなほどの横顔のドアップがあった。少し触れた頬と頬に男鹿は気付いていないのか、気付いていても関心がないだけなのか。
邦枝は羞恥に飛び退きそうになったが、いやでも勿体ない!と耐え忍ぶ。
「甘い匂い、するよな?」
「あ、甘い匂い?」
「おう。」
すんすんと匂いを嗅ぎ鼻を鳴らす男鹿の犬のような仕草に心臓を押さえつつ、男鹿の言葉の原因を探る。
「…あ、これかな。」
思い浮かんだのは、鞄に入れておいたクッキーだった。
「蜂蜜入りですごく美味しいからって、千明に貰ったやつなんだけど。」
そっぽを向きつつ、掌サイズの小袋に入ったそれを男鹿に差し出す。男鹿は邦枝から身体を離し、それに顔を近付け二、三回匂いを嗅いだ。
「ん、これだ、これ。美味そうな甘い匂い。」
近すぎた距離が少し離れて寂しいような気持ちになりながら、男鹿の物欲しそうな顔をちらちらと見る。
「…欲しいの?」
「くれんのか?!」
期待する眼でキラキラと見つめてくるものだから、つい眩しくて腰が引けた。しかしせっかく男鹿から話しかけてくれて会話が成り立っている状態で、引いてしまうのは女が廃ると向き合ってから勢い良く小袋からクッキーを取り出す。
「べ、べつに一枚くらいならあげてもいいわよ!」
手のひらにじんわり汗が滲む。心臓の音が煩くて、クッキーを摘む指先が少し震えていた。
男鹿はクッキーと邦枝を見てから、首を斜めに傾ける。つられて、邦枝も同じ方向に首を曲げた。
「あが。」
「え…?」
そして何かに気付いたような顔をした男鹿は、おもむろに口を大きく開けた。邦枝は呆気にとられ反応しかねたが、口内を指し示す男鹿にその意図を悟る。
危うく、クッキーを粉々にするところであった。それくらい、邦枝の動揺は最高潮だったのだ。
(ど、どうしよう!これは噂に聞くカップルなどが公衆の面前で傍迷惑にもやってのける、はいあーんのポーズ!…駄目だ!こんなの私には出来ない!そ、それに私と男鹿は別にカッ、カップルとかじゃないし!違うし!)
すでに放課後だが、まだ教室にほとんどの生徒が残っている。助けを求め周囲を見回すが、やけに温い視線が方々から注がれ、邦枝は羞恥のあまり唇を噛んだ。
男鹿のツッコミ役であるはずの古市は眠っているベル坊の手を振りながらいい顔をしているし、頼みの綱の大森や谷村は頬を染めながら姐さんガッツです!的なポーズをとっている。
邦枝は腕まで赤く染めて、立ち尽くした。
すると、不意に手首を掴まれる。掴んだ相手は男鹿で、そこから先は不思議とスローモーションのように映像がゆっくりと脳に伝わっていった。
男鹿は開いていた口で、邦枝の指からクッキーを奪う。何度か咀嚼し飲み込むと、年相応に見える表情で笑った。
「やっぱ、美味いな!サンキュー、邦枝!」
機嫌良く礼を言うと、男鹿はベル坊のほうへ向かって歩き出した。邦枝はぼんやりとその姿を眼で追ってから、さっきまで掴まれていた自分の手首をさする。かすかに残っているような気がする体温と、指先に触れた温かく柔らかな感触に、一気に脳がショートした。あまりのことに、キャパシティをオーバーしてしまったのだろう。
姐さんまだ傷は浅いですよ!と言う大森の声を遠くに聞きながら、今日は手洗わないと心の中で誓った邦枝は、幸せを噛みしめていた。