惑溺ヒステリカル
目の前には、死体がある。
これでもかと手足の異様な方向へ螺くれた死体。鬼の血を引き、その上人食を取り戻していたとは言え、高所からの落下には耐えきれなかったか…と津野田現人は思った。
どうやら頭から落ちたらしい、と頭部の損傷を見て思う。ぱっくりと文字通りざくろのように割れた頭部から、溢れるのは果実ではなく真っ赤に濡れた脳髄。ご自慢の銀髪も、今や彼自身の血でしとどに濡れていた。
「……今、どんな気持ち?」
しゃがみこんで、彼の顔を覗き込んで問ってみる。彼は酷い死に顔をしていた。普通の人間が見たなら、一生忘れられず一生苛まれ続けるだろうと言うような、おっかない顔。
ひんむいた目を閉じさせてやりたくなって手を伸ばして、指紋を残してはいけないんだったと思い止まった。もう指一本触れられないんだなあ。手袋ぐらい持ってくれば良かったかな。
「痛かった?」
痛くなかった訳ないだろうなーなんて思いながらも聞いてみた。頭からだったから、痛みは一瞬だったかもしれないけど、それでも痛かったろう。頭の割れる痛みを、手足の螺くれる痛みを想像してみる……けど、良くわからなかった。だってそれは俺の痛みじゃない。
「……ねぇ」
名前を呼んでみても、返事はなかった。そら、そうなんだけどさ。何となく違和感を覚えて、繰り返し繰り返し呼んでしまう。
ねえ、旦那。起きてよ。ねえ聞いてる?旦那ー。旦那ーってば――……幹孝、さん。
ねえ。
つ、と頬を何か温かいものが、伝った気がした。気のせいかも知れない。それは頬に触れてみればわかる話なのだけども、そうする勇気はなかった。
もし、もしそうだったなら、もう、駄目だ。駄目になってしまうから。彼奴のために捧げてきた二十数年と、これからの全てを、自ら否定することになってしまうから、だから、ねえ?
…嫌に、人肌が恋しくて恋しくてしょうがなかった。冬でもないのに寒くて寒くて、身体が震えた。声が震えた。縋る物が欲しくてたまらない。…その死体でも、いいと思えるくらいには。
そうだ、俺は、寂しくて寂しくて堪らないから、だから、こいつに触れたいと思っている、思っていた。それ以外に何かあったと言うことでもない。憎むべきこいつに、憎む以外の感情を持つなんてことはあってもならないことで有り得ないことで――……
そう、…だ。
「…そんなわけ、あるか」
独り言を呟いて、俺は腰を上げた。五月蝿い心臓を聞こえないふりして、冷たい頬を気のせいだと信じて、立ち上がる。死体は勿論吊られて起き上がってきたりしなかった。死んでるんだから、当然。俺が突き落として殺したんだから、当然……俺は大きく首を振った。
「持ってけよ、畜生!!!!!好きなだけ食らえばいい!!!!!好きなようにすりゃあいい!!!!!その代わり、お前は俺のものになるんだ!!!!!」
ごう、と山が鳴いた。俺は天を睨めつけて続ける。
「てめえを封じた憎い憎い子供の子孫だ!!!!!これほどの供物もねえってもんだろ!!!???」
ざわり、ざわりと先程の静寂が嘘のように木々がざわめいた。まるでくすくす笑いのように木々が擦れる。
大声を出しすぎて、耳がきーんとした。喉が酷く痛い。それでも、見えない何かへ、殯の鬼へと俺は吠えた。
「お前の、…お前の全てを寄越せ!!!!!力を寄越せ!!!!!全てを手に入れられるだけの、圧倒的な、力を……」
そう、それが望みだっただろう?そう願い続けてきたんじゃないか。だからこそ、生きてこられたんじゃないか。…なのに、
「……ぅ、う、……くそが、よぉ……――」
なのに、なのに、どうしてこんなに痛い?苦しい?辛い?……わかんねえよ、くそぉ……!
ぶつん。俺がそれに気付いてしまう前に、何かがぶつりと、千切れた。
世界は確かに反転した。表を裏に、陽を陰に、正を負に、白を黒にするための何かを、しないためにあった何かを、今確かに引きちぎられた。山が吠える、吠える、自分がぎりぎりと作り替えられる痛みを覚えた。これまで持っていた全てを、体温すら奪われる気がした。ああ、痛くて堪らないよ、ねえ……
轟、と山が笑った。