シスター
その日、学校の帰り道に僕を見つめながらそう告げたトランクスくんの声は、水平線のようにまっすぐで迷いが無くて、それはきっとその一言を僕に伝える前に彼が幾つかの葛藤を乗り越えた証であり、僕は拒むということを忘れてしまった。
嫌悪や恐怖、まして呆れや照れは無かった。それらを凌駕してトランクスくんは僕の事を好きだと言った。それが単純に嬉しかったし、同じように僕も彼のことを好きだった。恋人とか、彼氏・彼女、呼び名は沢山あるけれど根源は一緒だろう。好きだっていう気持ちをどう表現するか、その違い。つまり男同士だからどうだとかそういうことを、僕は全く考えなかったわけで。そして、僕と同じような立場の人間なら誰だってそうなんだとばかり思っていた。
知らないというのは、楽だけどほんの少しずるいことかもしれない。僕は知りたくなかったわけじゃない、ただ、知ってるつもりだったから聞こうとしなかった。本当は、トランクスくんが僕を抱きたいと言って、そのことに対する僕の返答が「良いよ。」の一言だったときのトランクスくんの表情の理由もよく分からなかった。あんまりにも驚いた顔したくせに、すぐに真剣な表情になって、お前すごいよ、なんてまるで家族みたいな口ぶりで言われて、なんだか可笑しくて笑ってしまったんだ。
そしてその日の夜、トランクスくんは僕にまるで壊れ物を扱う様なキスをした。
そのくせその後の行為はやけに性的で、僕は抱かれながらひたすら恥ずかしかったのを覚えている。優しくするからと囁かれたのも思い出したけれど、実際優しい指は触れた一瞬だけで、すぐに動物的に変化してしまったし。
僕とトランクスくんが、性交という行為を遂げた次の日のこと。(その日僕はトランクスくんの家から学校へ行った。トランクスくんと僕は今年から中学と高校に分かれたために、違う学校に通っている。)学校の男子トイレ内で数名の男子が「やりてぇ。」とぼやいていたのが聞こえた。彼らの手にはグラビアの雑誌が握り締められていて、その雑誌に写っているのは当然ながらどれも女性だった。
放課後、僕は家に帰る前に兄ちゃんのところに寄った。そして研究の合間に出てきてくれた兄ちゃんに訊いてみたのだった。
「男が男とセックスするのって可笑しいのかな?」
僕が訊ねると、兄ちゃんは僕の質問に呆気に取られたような顔をしたけれど、すぐに真顔に戻ってそういう人も中にはいるさ、と答えた。僕と兄ちゃんは、兄ちゃんの自宅兼研究所の庭に置かれた木のベンチに並んで腰を下ろしていた。穏やかな時間だったけれど、僕が足を動かしながら「僕、昨日トランクスくんとセックスしたんだ。」と言うと、兄ちゃんはまるで尻尾を踏まれた猫みたいに跳ね上がって驚いた。
その反応が面白かったので声に出して笑うと、笑ってる場合じゃない!とでも言うように立ち上がって僕の両肩を掴んだ。そのまま数秒の沈黙が流れて、兄ちゃんは僕に尋ねるべき質問を探している様子だった。目だけが動いていて、汗をかいていた。
「お前、トランクスと付き合ってるのか?」
「うん。」
「それはいつからだ?」
「好きだって言われて初めてキスされたのは十四の時だよ。」
「その…昨日のことは同意の上なのか?」
「うん。」
まるで尋問のように兄ちゃんの顔は真剣だった。対照的に僕の心は落ち着いていて、トランクスくんとしたことが悪いことではないという絶対的な自信があった。それがどこから来るものかはわからなかったけれど。結局その後兄ちゃんは、そうか…とだけ呟いて研究に戻ってしまった。ベンチに残された僕はすることもなくなってしまったので、そのまま家へと帰った。
その出来事からもう二週間が経つ。
このことを思い出したのは、今まさにトランクスくんが僕を抱きしめて離さない帰り道だからかもしれない。トランクスくん・人のいない帰り道・抱きしめる・冬の匂い・肩の温度。色々なものが思い出の引き出しを開ける鍵になっている。トランクスくんは時々泣きそうな顔して、僕にキスしたり抱きしめたりする。そんな時に僕は人の心を読める力が欲しいと熱望する。多分彼は難しいことを考えているから、心が読めたところで僕にはよく分からないだろうけれど、それでも何も知らないよりは幾分かマシな気がしていた。僕とトランクスくんがしていることが悪いことだとは思わない。だけど、トランクスくんが悲しい顔をしているのは僕も悲しい。それははっきりと分かった。冬の風が僕とトランクスくんを吹きつけて、あまりの寒さで僕は目を瞑って目の前の肩に顔を埋める。トランクスくんはちょっとだけ身じろぎして、より強い力で僕を抱きしめた。ラベンダーの髪から香る匂いが風に吹かれて僕を満たしていく。
例えばこの哀しみを埋めるのに、僕がトランクスくんの気持ちを理解できるくらい頭が良くなる必要性を50%だとすれば、僕くらい物事を簡単に考えられる力をトランクスくんが持つ必要性も50%なんだと思った。そしてその先に棲む僕らは、多分全ての答えを知っている。