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あなたに此処にいてほしい

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ひゅうひゅうと遠くから己の息を吐く音が聞こえる。
 その音はもうずいぶんと幽かなものになっていた。



 いったい何処が貫かれ、何処が斬り裂かれたのかももう判別できない。討ち果たすべき怨敵をのみ追い続けていた凶王は、その男が待つ戦場へ辿り着く前に血塗られた道を絶たれた。
 いま、己の首を獲るべく兵を指揮しているであろう相手の将が一体誰であったのか、三成には興味がない。濁った頭では思い浮かべることすらできない。
 ひくりとも動かぬ己の腕を睨みつけながら、血を血で洗う戦乱の世を長引かせ凶刃を振った王は、ごぽりと口から血泡を噴いた。
 まだ ゆるしをえていない。
 噎せかえる血の海に身を浸しながら、三成は懸命に散らばった思考のかけらを追う。
 まだ。
 しぬわけには。
 何百もの兵に包囲された後、その総てを斬り捨てながら三成はひたすらに駆けた。幾度太刀を受けようとも一瞬たりとも怯みもせずに、次の瞬間にはその相手の首を、胴を、斬り裂いては咆哮する。全身を朱に染めながら、もはや人間とは思えぬ姿で目につく者総てを屠っていった。追い詰めたと確信した相手がなお見せつける途方もない禍々しさに、退くこともできずに泣き喚きながら手負いの敵将へ躍りかかった兵は、次から次へと首を刎ねられた。

 そうして気付けば敵からも友軍からも遠く離れた山中で、凶王はひとり死を迎えようとしている。
 もはや眼を開いているのか閉じているのかも判然としない。腕は、脚は、首は、残っているのか。既に四肢がすべて千切れ飛んでいたとて、三成は驚かなかった。ただひたすらに、赦しを乞うた。

 
 しねない。まだしねない。おゆるし を。
 ―――さ、ま

 茫洋とした意識が最期に追い求めたのは、たったひとりの赦しだけだった。
 だが、世に息づくもの総てが終わりを迎えようかという静寂の中に、突如空気を震わせ地面を穿つ轟音が響く。
 三成が、薄らとした意識をそちらへ向けた時、
「―――三成、」
 死にゆく世界にただひとつだけ、凛とした声音が放たれた。


 現れた男は一寸離れた処に仰向けに身体を投げ出した三成を見て、一目でこれが最期と悟ったのだろう。後ろへ控えた片腕たる将へ、静かに首を振る。それを受けて、ふたたび轟音を響かせながらくろがねの武将は姿を消した。
 石田三成生死不明、との報せを知った時、男は初めて己の我儘のためだけにその片腕を使った。
 片腕が去り、その余韻がしんと振る空気にかき消えた頃、男は足を踏み出した。
 

 指先ひとつ動かせぬままに、斃れた三成は絶望した。
 如何して男が此処へ現れたのかなどどうでもいい。その、溢れんばかりの生気に満ち満ちた身体を貫く刃も牙も、すでに己が持っていないことに狂おしいほどの怒りを覚えた。分散していた意識は今一度、ただひとつの怨嗟の元にはっきりと形を成したが、三成にはすでにそれを突き立てるすべがない。
 睨みつけることすらできず、もはやすでに事切れたに等しい状態となった三成のもとへ、男はゆっくりと膝を折った。
 祈るように。
 そしてそうっと息を吐く様に告げる。
「三成、……お前、死んでしまうのか」
 男の―――家康の声に含まれた感情など理解したくはない。だが、今なお幽かに息づいている己の中の意識が勝手にそれを判断する。

 哀惜 など!

「なあ、―――もう、お前、ここにいないのか」
 うつろに眼を見開き、口の端から血を零れさせ、筋という筋が断ち切られ貫かれた姿を前に、家康はひとりぽつりぽつりと言葉を落とす。
「……ワシを殺しにくるのではなかったのか」
 答えを求めずに一方的な感情を押しつける。
「まだ、天下は定まっていない。この世はどうしようもなく脆すぎて、絆が届かぬ場所ばかりだ。各地の軍を平定するには相当の時間がかかるだろう―――なあ、三成。ワシは、その最後に、その瞬間に、ワシの前に立っているのはお前だとばかり思っていたんだ」
 ああ、家康。
 家康。
 いえやす。
 三成はあの雨の日からもう何度唱えたかもわからぬ相手の名を、総ての呪いを込めて繰り返した。
 いえやす、貴様、きさまはどこまで。
「ワシの宿命の果てにはお前がいるのだと、そう、思っていたんだ」
 その声はなんだ。貴様が何を嘆くというのだ。悦べばいい、これで貴様の望むくだらん世が近づいたと雄叫びをあげてみせろ。
 声が出せるものなら渾身の力で罵っていた。だがすでに舌を持ち上げる力すら三成の中には残っていない。身悶えるほどの無力感が三成を襲う。
「三成。なあ、―――三成……」
 男が己を呼ぶ際には、いつもどこか縋るような色があった。もう遠い昔に、あの尊い御方のもとで、共に刃を振ったあの頃から。
 三成、三成。―――なあ、そんな哀しいことを言ってくれるなよ。
 同じ声音で男は乞い願う。

「いかないでくれないか」


 なんてひどい男だ。
 血の海に横たわったまま、三成もまた嘆いた。


 たん、たんと水滴が地を打つ。それが何かなど理解したくはないというのに。
「……おまえはほんとうに、哀しいほどにうつくしかった」
 今すぐこのふざけたなきごえをあげる喉笛を噛み切ることができるなら、二度とあの方の赦しを得られなくとも構わない。

 
 それが、凶王の意識がふつりと途切れる間際に願ったことだった。
作品名:あなたに此処にいてほしい 作家名:karo