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唇おいしそう

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俺をじっと見つめていた悟天はまるで幼子のように呟いた。もしもこれが漫画なら俺の眼鏡はずるりと鼻を下降しているはずだ。思わず眉を顰めて、シャーペンを動かしていた手を止め、眼鏡を外してから悟天に目をやる。途端に悟天は「あ、勉強終わり?嬉しいな。」と背もたれに乗せていた顔を持ち上げて、笑う。今まで悟天は俺の前の席をあたかも己の場所であるかのように逆向きにどっかりと座り込んで、ひたすらに勉強をしていた俺を見ていた。仮にもここが上級生の教室で今座っているのが先輩の机であるというのは、もはや忘却の彼方らしい。いくら放課後で二人以外教室に誰もいないとはいえ、相変わらず女なのに見上げた根性だと俺は思う。
逆向きに座ったままで悟天は俺の方を見ている。俺が勉強を一時中断したものの、その後動きが無いのでどうしたのかと思っているらしい。数度の瞬きをして、トランクスくん?と首を傾げた。そのしぐさはなんだか小動物みたいで結構可愛い。

「今、なんかおかしいこと言っただろ。」
「おかしいこと?ああ、トランクスくんの唇っておいしそうだねって言った。」

なるほどどう考えてもおかしいことだ。と言いながらシャーペンを回すと、その返答が気に食わなかったのか、シャーペンを奪われた。(悟天はむっとすると人のものを奪う傾向がある。これでは悟飯さんも昔は苦労したのだろうと思う。)そして出来もしないのにペン回しの真似事をしながら、「だってそう思ったんだから仕方ないじゃん。」と唇を尖らせた。そんな悟天を見て、自分の中で小さな悪戯心が疼くのを感じた。

「逆なら分かるけどさ。」

俺はそう言ってすかさずシャーペンを取り戻す。あ。と口を開いた悟天のそこへ軽く口付ける。

「男が女の唇を美味そうって思うのは当然だろ?」

まして好きな女なら。そう言って笑うと、思いっきり横っ面に鞄がぶち当たった。悟天が脇に置いていた自分の鞄で俺を殴りつけたのだ。その衝撃は鞄の中の教科書の重み+悟天の攻撃力+俺の油断=で俺を襲った。つまり、とても痛い。ぐっ、と声を出して顔を押さえていると、悟天が立ち上がるのが分かった。

「トランクスくんのエロ!学校でそういうことしたら兄ちゃんに報告してやるんだからね!」

今にももう帰る!と教室を飛び出していきそうだったので、痛む顔を抑えつつも慌ててその腕を掴んで自分も立ち上がる。気分屋の悟天のことだから今の感情に任せて本当に悟飯さんに報告するかもしれない。そうなれば普段優しい悟飯さんでも、今こそとシスコンぶりを発揮して俺の家に殴りこんでくるかもしれなかった。それは十分に予想でき、有り得る話だった。
しかし意外にも、立ち上がった悟天は眉間にしわでも寄せているのかと思えば笑っていた。そしてそれは先ほど勉強が終わったことを喜んでいる時よりもずっと嬉しそうで、思わず俺の方が不可解だという顔をしてしまった。

「でもちょっと嬉しかった。好きな女っていうくだりはね。それとこれとは別だけど。」

悟天はあはは、と無邪気に笑いながら片方の手で俺の顔を撫でた。触れられただけでもちくりと痛むけれど痕が残ることはないのだろう。そういう加減が悟天は妙に上手い。もしも傷が残ったらそれをネタに今すぐ責任を取って結婚しろと言えるのだけれど、と俺は顔を殴られるたびに毎度思う。まあ責任を取らされるのは普通逆の場合なのだけれど。もしかしたら俺たちは男女の関係があまりに逆なのかもしれない。せめてセックスの時だけでも俺がきちんと男としての立場でいられて良かったと思うべきなのか、とそこまで考えていると、「またなんかいやらしいこと考えてるでしょ。もう、トランクスくんたらすぐこれだから困るよね~。」と頬の傷をぺしぺしと叩かれる。あながち外れてもいないので、反論することも出来ずに俺は黙ったまま自分の荷物をまとめることに取り掛かる。帰り道で「今度はお前が奪ってくれよな。」と言うのは、やはりアウトなのだろうか、と考えながら。
作品名:唇おいしそう 作家名:サキ