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美しい日常

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今日はトランクスくんと水族館へ行くことにした。約束をしていたわけではない。僕が今朝一方的に決めた。
第三の日曜日は静かな雨が降っていた。曇り空から落ちてくる雨粒が、レースみたいに見える。朝一番に家を訪ねる。トランクスくんの部屋の窓の外から、中を覗き込んだ。カーテンで遮断された向こうではきっとまだ眠っている。彼に自分の存在を知らせるために、数回窓ガラスをノックする。何度か叩いたところでカーテンが開く。どうやら深い眠りからは覚めていたらしい。それでも寝起きだったらしく、眠そうな目で僕を見ている。窓ガラスの向こうから手を振って、おはよう、と口を動かす。その瞬間にカーテンは再度閉まった。僕がまたしつこく窓を叩くと、もう一度開いて、今度は窓ガラスも開けてくれた。相変わらず眉をよせているトランクスくんは、低血圧だ。

「水族館に行きたい。連れて行ってよ。」
「…雨降ってんじゃん。」

僕の傘、そしてその向こうの景色を仰いでトランクスくんは言う。そうだよ。早く着替えしてよ、と僕が言うと、彼は一度部屋へと引っ込んで着替えを始めた。どうやら行く気はあるみたいだ。退屈な待ち時間に、傘をくるくると回して遊んでいると、すぐに着替えを済ませたトランクスくんが戻ってきた。

「一回家に入れよ。朝食摂ってくる。」

トランクスくんは、そう言うなり窓を閉めて自分の部屋を出て行く。仕方なく僕はトランクスくんの家の玄関に回ってベルを鳴らす。中へ通してもらって、リビングでブラちゃんと他愛も無い話をしながら待つ。

「悟天さんたち、今日はどこへ行くの?」
「水族館だよ。」
「ふうん、いいなぁ。わたし、ネオンテトラっていう魚が好きなの。」

暗い部屋の中で体が光るのよ。ブラちゃんはそう言って笑った。その様な会話をしながら、10分ほど待つとトランクスくんがやってきた。ブラちゃんに挨拶をして出発する。外に出ると、雨は大降りではないけれど、止まずに降り続けていた。夏の雨は土の匂いがする。僕と同じように、トランクスくんも傘を広げた。なんとなくその手を制止する。

「なんだよ。」
「一緒に入らない?恋人らしく。」

僕が自分の傘を掲げてみせると、それを見て彼はちょっと黙った。多分何かしら考えているんだろう。だけどすぐに「それじゃ小さすぎるだろ。」と肩をすくめられてしまう。自分でも傘を見なおし、それもそうか、と別々に傘を広げた。

水族館は休日だというのに人がまばらだった。最近、ここより大きくてアクセスも便利な新しい水族館が出来てしまったからだろうか。中はほんのりと薄暗くて静かだった。雨に濡れたサンダルでひんやりとした館内を歩く。水槽の中にはまだ色とりどりの熱帯魚が優雅に泳いでいる。彼らに人口密度は無関係だ。

「あ、この魚可愛い。いいなぁ、欲しいな。」
「魚なら今度の祭で金魚とってやるよ。」
「金魚かぁ。それもいいけどね。」

でもちょっとロマンスが足りない、と言うと、なんだよそれ、と笑われた。室内の水族館では雨音が届かない。静かな空間を歩いてたどり着いた大きな水槽の前の、広いホールにあるベンチに腰を下ろす。子供がはしゃいで走り回って、親に叱られている。そんな光景を見ていると、隣に座っていたトランクスくんがくすくすと笑い始めた。

「どうしたの?」
「子供の頃に悟天と俺で、悟飯さんにここに連れてきてもらったの憶えてないか?」

おかしそうに目を細めている彼の顔を見ながら考える。けれどそんな記憶、とても思い出せなかった。

「憶えてない。」
「お前その時迷子になったんだよ。」
「うそ。」
「その時はまだここの水族館もわりと賑わってて、人が多くて、ここの広場の前で騒いでるうちに人波に飲まれてさ。」
「…全然憶えてない。」

懐かしい、なんて一人楽しげにされても自分は全くぴんとこないのだから、つまらない。もしかして僕をからかっているのではないのだろうかとさえ思ってしまう。けれど、目の前で回遊する大きな魚を見た瞬間、幼い頃の自分がフラッシュバックした。

「あ、ちょっと思い出した。」
「悟天がすごい声で泣いたから、悟飯さんと俺もすぐ見つけられたんだよな。」
「なんかすごく怖かったんだよね。あの時。魚が。」

魚の群れを眺めながら呟くと、トランクスくんが不思議そうに、魚?と言う。魚。確かにその時、僕は一人になってしまってとても心細かった。だけど、それだけならまだ悲しくなかった。人が多いといっても、広大な森で迷うほど身の危険を感じるわけでもなく、仕方なしにぼんやりと巨大な水槽を見上げた。その時、目の前を魚の群れが通った。大きな魚の空虚な眼が自分を見ている。瞳が一つ、二つ、三つ、四つ。数え切れないほどの瞳が怖くて僕は泣いた。その後すぐに兄ちゃんとトランクスくんと会うことが出来て、その後に食べさせてもらったアイスクリームが美味しかったから、すっかり忘れていた。でも、確かにそんなこともあった。

「なんか思い出したら、魚見てるの怖くなってきた。」
「はは、なんでだよ。」
「内緒。」

魚の目を見ないように、僕はトランクスくんの肩に顔を寄せた。水槽に背を向けた世界は仄暗く、水色だった。

「そういえばあの時、悟飯さんの心配っぷりもすごかったんだぜ。」
「もういいよ、その話は。」

それより、キスでもしようよ。正直なところもう自分の恥ずかしい話を聞きたくなくて、僕はそう言った。おかげでトランクスくんはすぐにその話題を捨ててくれた。ありがたい。キスをする合間に横目で水槽を見遣る。魚の群れはまだしなやかに泳ぎ続けている。目を閉じて、怖くなんてない、と心の中で呟いた。
くちびるが離れてから、僕はトランクスくんの頭を撫でた。目線の低い僕から黙ったまま大人しく頭を撫でられているトランクスくんに、「見つけてくれてありがとう。」と言う。その言葉を聞いても、まだいまいち話の繋がっていない目の前の恋人に少しだけ笑った。

「アイス食べて帰ろっか。」

頭を撫でていた手でトランクスくんの腕を引いた。この水族館にアイスなんてあったか?と聞かれる。僕はその質問に答えず、彼の顔を覗き込んで、楽しかったですか?と訊ね返す。一瞬呆気にとられた顔をしてから、まあな、と笑うトランクスくんの顔を見て、僕はまた人知れず彼を好きになった。
作品名:美しい日常 作家名:サキ