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泡沫を抱く

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海辺での修行を考えたのは悟飯さんだった。その効果を詳しく俺は知らないけれど、きっと悟飯さんには色々な考えがあるのだろうと黙々と修行をしてきた。
修行はいつも陽の暮れる頃に終わる。南風が強くなり、波の音が大きく響く。今日は終わりにしよう、と悟飯さんが言うと、俺は砂浜から立ち上がって体についた砂を払い落とす。悟飯さんも砂を軽く幌って、少し伸びをして海の方を見ていた。遠くを見る時の横顔が綺麗だった。

「俺を抱いた事を覚えている?」

唐突に質問を投げかける。訊きたかったことがあります、と切り出そうとしたけれど、無駄な気がして止めた。寒いわけでもないのに声は震えた。目の前の瞳が俺をまっすぐに見ていた。悟飯さんの後ろでは空に夕闇が迫っていた。鳥の群れが弧を描いている。俺の後ろからは波の音が聴こえた。まだ何も言われていないのに、なぜか俺は泣きそうだった。

「覚えているよ。」

悟飯さんはそう言うと、俺に歩み寄って、抱きしめた。こんな風にだろう、と言われた事に対して、俺は緩く首を振ったけれど、悟飯さんはそれには気付いていない様子だった。違う、と今度は口に出して言う。もっときちんと。悟飯さんは、間違いじゃなく俺を抱いたでしょう。間違ってる?一言一言を発する度に悟飯さんの匂いが俺に入ってきて、頭がおかしくなりそうだった。俺は今自分を抱きしめているこの人が好きで好きで、たまらなかった。けれどその気持ちをはっきりと口にする事は無い。まるで今の自分のように、言えれば良いのに。言えれば良い、と思いつつ実行しないのは悟飯さんが何も言わなくても全てを理解してしまうからだ。そうして、悟飯さんは駄々をこねる俺の頭を撫でて、トランクス、と名前を呼ぶ。名を呼ばれた俺は犬みたいに顔を上げることしか出来ない。阿呆みたいに半開きだった俺の唇に悟飯さんの唇が重なった。泣きたくて泣きたくてもう、仕様がない。ずるい、と言って目の前の胸を殴りたい。

「もう一度して。」

俺の言葉を聞いた後に、悟飯さんはもう一度キスをしてくる。だけど俺はそういう意味合いでその言葉を言ったわけではない。

「キスじゃないよ。」
「うん、知ってる。」
「じゃあ、」
「もう帰ろう。夜になってしまう。」

優しく細められた目に俺は下唇を噛んだ。噛んだ下唇に、悟飯さんの指が宛がわれる。止めなさい、と言われてもそのまま噛み続けた。ほんのり鉄の味がするまで噛み続けた。悟飯さんは「最後に」というように俺に額にキスをしてから、俺の手を引いて家の方へ歩き出す。俺は手を引かれて俯いたまま鉄の味を舐めた。いつの間にか夕焼けの空が眩しく海を照らしていた。砂浜の砂に足を取られながら、俺たちはゆっくりと進んでいった。
悟飯さんは先日俺のことを抱いた。抱いたというのは抱きしめたという意味ではなく、セックスをしたという意味だ。薄暗い部屋の中で、悲しい、とか、痛い、とか俺は何度も口にしたのに悟飯さんは止めなかった。ひたすら俺を愛撫していたのに、キスは一度もしなかった。トランクス、と名前を呼んでいるのに、好きだとか、そういった意味のある言葉は一度も言わなかった。トランクス、痛いよ、トランクス、なんだか悲しい、そんな取り留めの無い出来損ないの会話があたり中に散らばっていた。失敗といえば、俺は悟飯さんに抱かれながら茫漠と、それでもこの人を好きだ、と確かに思ってしまったのだ。

足場の悪い浜辺を抜けて、歩き続けて家の前へ着くと、悟飯さんは道着の内側から小さなビニール袋を取り出した。それを俺に渡して、今夜の風呂に使うと良い、と言った。「今夜はうちへ泊まらないの?」と俺は訪ねた。引き止めたかったのかもしれない。悟飯さんは拙い引き止めに止められることもなく、ああ、と言って俺の知らないどこかへ帰っていった。やけに心が苦しいと思ったら今日は満月だった。満月の日は気が昂ぶるので、あまり空を見てはいけないと母さんに言われていた。だけど夜空の月の前を悟飯さんが飛んでいたから、俺はいつまでも目をそらす事が出来ずに立ちすくんでいた。

バスタブに、悟飯さんがくれたビニール袋の液体を入れる。ぬるま湯を注ぐとどんどん泡が湧き上がり、最終的にバスタブは泡でいっぱいになってしまった。中に入ってみるも、体中に泡が付着してどうもむず痒いような気持ちになる。目の前で揺れる白い泡の塔を作り上げた液体は、てっきり傷に効くとか、そういう類のものだと思っていたけれど、母さんの言うところただの入浴剤だそうだ。
バスルームには薔薇の香りが漂う。果たして悟飯さんは一体どこでこれを入手したのだろうか、と考えた。そして、こんなお湯に入るだなんてまるで女みたいだと思いながら、心の底では良い香りだなと呟く自分がいた。口元まで湯に浸かって、また今日のことを思いだす。下唇の内側が、じんわりと痛んだ。

(もしかしたらそんな風に思うことも、自分の気持ちを裏付けしている証拠なのかもしれないな。)

きめ細やかな泡は俺の指先に触れると一つ一つと消えていった。淡く脆いその存在が、まるで悟飯さんを想う自分の気持ちのようだ、とまた女みたいなことを、少し考えた。
作品名:泡沫を抱く 作家名:サキ