恋に落ちなかったロミオとジュリエット
数年前のある朝、霞む目をこすりながらリビングへ歩いてゆくと、仁王のように立っている母と、それにひれ伏すようにする父がいた。 父は決して母に怯えているわけではない。母のことをよく分かっているのだ。そうすることで最短に母の心を穏やかにすることが出来ると知っている。 子供心にそれが分かっていた私は、特に驚くこともなく普通にテーブルの側に腰を下ろして、二人を見つめた。母はしばらく父を睨んでいたけれど、「さっさと金を用意してよ。一千万ゼニー。」と言い捨ててリビングを後にした。私の存在には最後まで気がつかなかったらしい。父は顔を上げて、そこで私と視線が絡むと驚いた顔をして、それからちょっとばつが悪そうにした。
「マーロン、おはよう。」
「おはよ。」
私はキッチンからミルクとコーンフレークを持ってきて、それらをテーブルに置いた。父は体を起こして座りなおすと、少しだけ苦笑する。
「ごめんな、朝から嫌な気分になっちゃったか?」
「ううん。だって喧嘩をしているわけじゃないでしょう?」
「まあ・・あれが母さんなりのデートの誘いみたいなもんだよ。」
そう言う父の顔は、やれやれとため息をつきながらもどこか嬉しそうだった。母が恥ずかしがりやで感情を素直に表現できないのだろうということはよく分かっていた。けれど土下座のような真似までさせられながらも嬉しげに出来る父が、私はちょっと不思議だった。
「どうしてお母さんと付き合おうと思ったの?」
「そうだなぁ…。すごく可愛い人だからかな。」
「見た目重視?」
「うーん、最初は確かに見た目だったと思う。」
朝食を摂りながらそこまで話していると、背後から足音が聞こえた。後ろを振り向くとやはり母が立っている。母の表情は険しいけれど、今までの話を聞いていたせいではなさそうだった。私が「お母さん、おはよう。」と声をかけると、「おはよう。」と返事をしてくれる。父と喧嘩をしようと、機嫌が悪かろうと、必ず私の言葉には返事をくれる。母はさまざまな感情をきっちりと割り切っていた。
「マーロンの支度が出来たら出かけるよ。」
そう言って母はまたどこかへ行ってしまう。けれど出かけるということからして、きっと身支度をしてくるのだろうと思った。残りのコーンフレークを食べ終えてから、父に「どこへ行くの?」と尋ねる。
「新しい洋服が欲しいんだってさ。」
「ああ、それで一千万ゼニーも欲しいって言ってたの。少し欲張りね。」
「ははは、あれはそういう意味じゃないよ。いや、母さんの場合は本気だったりしてな?」
顎に手を当てて考えるような仕草をする父は愛嬌があって、私は笑った。だけど、あの頃私は母の言った言葉の意味が分からなかった。
でも少し大人になった今ならば解釈することが出来る。大金を用意しろ、という言葉は母の中で、服を買いたいから付き合ってほしい、という意味だったのだ。本当になんて遠回しで強盗のように分かりづらい表現。だけどそれが分ると、不思議とそんな母を可愛いと思ってしまう。私は、その時同時に父が母を可愛い人と言った意味も理解出来た気がした。
あの日、買い物に行った帰りの車で私はうたた寝をしていた。後ろのシートに横たわり気だるい睡魔の中にいながらも、助手席に乗る母が運転している父を見つめる横顔を見た。夕陽に照らされて染まった頬と、柔らかな笑みを湛えた口元、やさしく細められた目。その美しい笑みに、私はあの時幸せな温かさの中で、確かに父を愛する母の心を確信した。
母は素直になるということが今でも苦手なようで、時々父にすごい言葉を言い放ってはどこかへ行ってしまう。そんな日でも、私に会えば挨拶をしてくれる。そして父は私に会うと、あの日のように微量の幸福の匂いがする苦笑いをするのだ。時には原因が父でなくとも、母が機嫌を悪くしている日もある。だけど同じ日の夕方そっと手を繋いでいる二人を見たりすると、私はそんな二人を愛しく思った。
いつもどこかアンバランスなようで、本当は誰よりも安定しきっている父と母。私は二人が高さの違う肩を並べている姿を見る度、あの夕暮れの車内を思い出すのだ。
恋に落ちなかったロミオとジュリエット(愛に落ちた一般人二人)
作品名:恋に落ちなかったロミオとジュリエット 作家名:サキ