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ただ好きなだけ

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わあ、と声が出そうになるのをあんぐり開いた口を手で覆うことでてつしはなんとか阻止した。喉が渇いたから、という単純な理由で夜中に起き抜けたてつしは、まっすぐ台所へ向かっていた。途中リビングを通らねばならぬ金森家で、てつしはテーブルに座りにこやかな笑顔を浮かべている自身の兄、竜也を見つけた。極度の低血圧で夜中を好んで活動する兄を見かけるのはいつものことだったのでてつしが驚いたのは別件だった。兄が笑顔を浮かべている、そこだった。
「竜也兄、」
てつしが漸く躊躇いがちに声を掛けると、惚けたような顔で兄は返事をした。てつしを招き寄せる。
「どうした、喉でも乾いたか」
「うん、そうだったけどもういいや……竜也兄なんかいいことでもあった?」
頬杖をついて首を傾げた兄に、てつしはすぐに「なんでもない」と誤魔化した。兄に自覚がないのなら深く追求するべきではないのだ。
「……麦茶飲んで寝るっ!」
てつしは走り込むようにして台所に入り、冷蔵庫の陰に隠れた。困惑した風の兄だったが、そこは竜也よろしく「あんまり飲み過ぎて漏らすなよ、」優しい声だった。

「変な奴だな、」
てつしが部屋に戻ってから竜也はぼそりと呟いた。テーブルの上に置いてある地獄堂の薬袋を眺めて、竜也は微笑んだ。ただの紙の袋なのに。竜也はそれに警官の姿を見出していた。レンズの奥のあの瞳を知っている、あの色を知っているのは、(俺だけだ……)
ぼんやりと空が白み始めてもそれだけを見つめて竜也は微笑んでいた。竜也は早くに起きてきた父にそれを指摘されてようやくてつしの態度のわけを知る。羞恥で少し頬を染めた息子に父は静かに毛布を渡した。

「豪さん、」
一度呼んで返事がないので普段は返事があるまで入らない派出所に入り込んでしまった。
「豪さん、」
いないのか、と落胆しかけたとき、どん、と背中が何かに触れた。一瞬驚いて、身構えるように振り返るとそれは三田村だった。
「豪さん……」
縋る様に握りしめた三田村のシャツを、優しい手つきで彼は解いた。なんだ、と言いつつ三田村は竜也との距離を測る。
「また遊びに来たのか、」
三田村は警棒をデスクの上に置くと大げさな素振りで軋んだ椅子に座りこんだ。重みで少し傾く椅子の横に竜也は寄った。
「豪さんの顔見とかないとね」
「毎日来てるくせに今更何言ってんだよ」
竜也の眼はデスクに新しく挟み込まれた白い紙を見つめていた。竜也の聡い頭が瞬く間にそれを覚えていく。それは三田村巡査の勤務表だった。
「……毎日じゃ、ないよ」
三田村は竜也を横目に見つつそこに警帽を置いた。
「ああ、そうだろうよ」
三田村はデスクの三番目に閉まってある掌と同じくらいの紙袋を取り出した。薬袋だった。常日頃から頭痛の絶えない三田村は自宅と派出所の両方に薬を常備していた。
「地獄堂の薬?」
竜也が身を乗り出して覗きこむ。三田村が慣れた手つきで袋から薬を取り出す。最後の一粒だった。
「ありゃ、なくなっちまうか」
奥の冷蔵庫を無言で指さした三田村に、竜也も無言で頷く。水の入ったペットボトルを取ってこいと言う合図だった。自身も良く薬を飲むのに借りている冷蔵庫から、飲みかけの一本を選ぶ。飲みかけのものは必ず三田村のものだった。
「悪ぃな、」
軽く頭を下げてそれを受け取った三田村は薬をほおりこむとすぐにペットボトルのふたを開けてそれを流し込んだ。三田村の喉仏がごきゅごきゅと動くのを竜也は静かに見つめた。
「あーあ、薬ってのはいつ飲んでもいい味がしねえもんだな」
「甘いのがお好みならゼリーにでも包んで飲めばいいじゃない」
「てめえそれ誰に向かって言ってるかわかってんのかよ」
三田村のガサツな手がわさわさと竜也の艶やかな髪をかき混ぜた。三田村の温もりが、竜也の頭を通して心に伝わる。俯くだけが精いっぱいの竜也に、三田村は先程の薬袋を差し出す。
「これ、同じの買ってきてくんねーかな」
まっすぐ、三田村に貫かれた。何か頼みごとをするとき、三田村は必ず相手の瞳をしっかりと捉えた。
「っ、」
(ずるい、)(豪さんは、)(ずるい……)。
「竜也?」
目の前で手を振られて竜也は我に返った。そして奪うようにして薬袋を受け取る。
「地獄堂の薬ね、わかった」
自身を落ち着かせるため、静かに竜也は息を吸って、吐いた。
「ねえ、豪さん」
三田村が気だるげに、んー、と返事をする。
「祥子さんには、どっちから告白したの?」
「てめえみたいなガキには教えねー」
「……そっか、豪さんなんだ」
「なんでわかんだよ、」
「祥子さんからだったら目いっぱい自慢してくるから」
「竜也、てめえ、」
三田村はとうとう最後まで言葉を繋げられなかった。泣いているのか、なんて、そんな。

「なんだてつし、まだ起きてたのか」
てつしが裏の勝手口から帰って来たのを、敢えて竜也は咎めなかった。一瞬ビクビクしていたてつしだったが、竜也のその様子にほっとしたように胸を撫で下ろしている。
「お前ら、ちゃんと豪さんに薬渡したか?」
「あ、ああ、もちろん!」
戸惑ったように返事をしたてつしの頭を慈しむように竜也は撫でてやった。嬉しそうにてつしの顔が蒸気する。
「それなら、いいんだ」
てつしはテーブルの上に置かれた地獄堂の薬袋に気付く。
「竜也兄も飲んでるのか?」
「ああ、あれは……」
竜也が堪らなく切ない顔で笑ったのを、てつしは見逃さなかった。たった2人の兄弟なのに、こんなに笑う顔が違うなんて。てつしは何だか傷ついた気分だった。
「……竜也兄、」
てつしはいつぞやの夜を思い出した。そして何も言わなかった。そのままてつしは風呂場に駆け込む。
「てつし、湯冷めしないようにな!」
やはり兄らしい竜也の言動にてつしは現れたときと同じように胸を撫で下ろすのだった。

(てつしにまで気を遣わせて……)(ダメな兄貴だな、俺は)。
竜也は地獄堂の薬袋をじっと見つめた。握りつぶそうとして見つめたが、やはりそれは出来なかった。
「情けないな……、」
それでもやはり好きなのだ。あの瞳が、好きなのだ。三田村の、あの、瞳が。
竜也は静かに泣いた。落ちた雫も静かに薬袋に吸い込まれた。
作品名:ただ好きなだけ 作家名:しょうこ