無題
「・・・何度か会ったよ。君が知らないだけで」
「へえ、それでそう思ったの」
目前に立つ、顔にまだ幼さの残る青年は、淡々としゃべり続けていた。
何も悟らせない、寄せつけないそれは最後に顔を合わせた日から何も変わっていない。
「ならあなたの目は節穴だよ。オレの立夏をあなたは何も知らない」
彼の紡ぐ言葉は重い。まるでその場の空気に質量を持たせるかのように。
サクリファイスのくせに、生意気なスペルだ。
私は彼の言葉が嫌いだった。
すべてを縛る。
あの草灯君を縛る。
「なんとでも言え」
「・・・ねえ、おしゃべりはこれくらいにしようか」
スッと彼の長い足が歩み出す。
彼は体重がまるでないかのように歩く。音もなく私に近づくのだ。
「拳でやりあう気にでもなったのか」
「まさか。そういうのはきらいだよ」
顔を下から覗き込まれた。青黒い瞳は人間のそれであるはずなのに、薄気味悪い。
「でも」
瞬間、鋭い何かが目先を通り過ぎる。
(ああそういえば、君はそういうのが好きだったね)
寸前でよけたつもりだったが、甘かったようだ。
じりじりと焼けるような痛み。
眼鏡が床に落ちた音で、目元を鋭利な何かで裂かれた事に気づいた。
生温かい血が頬を伝う。
(君はそういうのが好きだった。そうやって草灯君にも痕をつけたね)
ぼたぼたと、大量の血が片方の目元を覆って、憎らしい彼の顔が見難い。
傷口を押さえてみるがそれは止まるどころかいくらでも溢れてきた。
顔の裂傷は傷が浅くとも大量出血をもたらす。
それを承知の上で狙ったのだろうが、傷は思ったより深いようだ。
本気で目を潰す気だったのだろう。
「中途半端に避けるなよ。自信があったからふっかけたんじゃないのか」
「・・・・・・痛いなあ」
痛みを与えるのは好きだが、逆は専門外だ。
イライラを抑えるように自分の髪を掴む。
やはり痛いのは嫌いだ。痛い。
「南先生、あなたは草灯とよく似ているよ」
とん、と傍の壁に肩を預け、荒くなった息を整えようとする。
うまくいかないがこの際どうでも良かった。
「だからあなたも痛いほうが好きなんじゃないかな」
ナイフについた私の血を指ですくって彼は壁に擦り付けていた。
血文字だなんて悪趣味だなと、私は他人事のようにそれを見ていた。
「君は・・・わかっていないね。私も草灯君も、痛いのは嫌いなんだよ」
嘲るように言ってやると、彼はにこりと笑って「知らなかった」と口にした。