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やさしい窒息死

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ナイフの冷たさと、血の熱さを感じるために手首を切る、縦に切る。日焼けしていない手首に浮いた血管を、撫でるように。愛撫するように。痛みを痛みと感じたい。肉と血管という、おれの中身で感じたい。


赤黒く錆びたカッターナイフを、俺は手首へ滑らせた。浮き上がった静脈を、撫でるような指つきで。ゆるり、皮膚の裂け目から湧き出した血が肘を滑って床を汚した。
ふと、後ろから伸びてくる手がある。暗い室内で尚光る、色白の肌の眩しさ。肩口に押し付けられた頭の重さ。切れかけた蛍光灯の頼りない光を、その銀髪がきらりと弾いた。ぎゅっと抱きすくめられて、熱帯夜、湿った肌と肌が貼り付く。……旦那、いたいよ。勿論引き剥がす方便でしかない。

掛かる体重に一握の感慨を覚えてしまうのは、先程の情事のせいか。それとも明日、来るべき禁足日に、人知れず、それどころが自分も判らぬまま、怯えているのだろうか。この生温い体温を貼り付く素肌の感触を煌めく髪を永遠に葬り去ってしまうことを、おれは恐れているのか?…いや。
躊躇いを断ち切るように、おれは更に深く手首を抉る。…躊躇い傷?……は、誰が上手いこと言えと。どうせ明日には治ってしまう傷だ。

年を歳を経る程、殺せば殺す程、喰らえば喰らう程、"痛み"は遠いものになった。人間離れした屈強さと、痛みに鈍感になる肉。痛みは苦痛ではなく、ただの娯楽と快楽と化した。

鬼を殺せるのが鬼だけであるように、またおれを傷つけられるのはこのおとこだけだ。唯一の同胞にして唯一の敵。寝起きたばかりで髪を乱したおれのこの情夫。
その指先が、まるでねだるようなかわいらしい仕草でおれの腕を撫でる――……おれはその眼前へ、血の滴る自らの手首を差し出した。差し出された餌に飛び付く燕のように、彼は俺の手首に唇を押し付けた。吸われていると言う感覚にじわりとする。わたしの血はあなたのワイン。わたしの肉はあなたのパン。

傷口に割って入る舌先は、ある意味キスよりも快感。鬼の急速な回復力で塞がりつつある傷口を、その舌先が抉じ開ける。みじりみじりと肉を裂く舌先。この快感はある意味セックスに似ている。

おとこはあまりに、無防備だった。赤子のように無心に俺の血を啜るおとこには、狂気の一片も感じることができない。先程、あれほど激しくおれを貪ったあの獣と、同じ生き物であると考えるのは難しい。
しかし間違いなく同じ生き物なのだ、とその手を見ておれは思った。その大きな手のひらの指の一本一本が、おれの首に絡み付くそれと一致する。暑い夏でさえ、タートルネックを手離せないのは一重にこのおとこのせいだ。


――もし明日、俺が死んだとして。

こいつは俺を抱くだろうか。そもそも負ける気などないのに、そんな世迷い事を思う。
明日おれがもしこのおとこに殺されたとして、こいつはおれをどう料理してくれる気なのだろう?物言わぬ、塊と化したおれを前にしてこいつは、…果たして欲情するだろうか。二度目の死を迎えるくらい、手酷く抱いてくれるだろうか――……


あらひと。

…おとこが、おれを呼んだ。寝起きに掠れた声で、何度も、何度も。嫌に幼い声色をしていた。あらひと。ついにおれは答えた。みきたか、さん?
……あらひと。
ふと、おとこが顔を上げた。銀の瞳が、さながら銀の銃弾のようにもしくはサーチライトのように、おれの心の底までをさらって、抉った。痛みさえ覚えるほどに。
おとこの指が、背後からおれの首に掛かった。おれは敬虔な信者のように、目蓋を伏せ頭を垂れる。視覚を失ったことで鮮明になった感覚が、おとこの指の温度を、感触を、動きをありありと伝えてくれる、

痛みの忘却は→感情の忘却。自分の痛みがわからないなら→人の痛みもわからない。人の痛みがわからないなら→その気持ちもわからない。人の気持ちがわからないなら→どうして自分の気持ちがわかる?

痛みをくれ。おれに忘れさせないでくれ。なくなってしまうなら、痛みの記憶だけ遺して。
汗ばんだ首筋に貼り付くおとこの指は、しかし痛みとは程遠い。…それともこのままくっついてしまえば、あんたの気持ちがわかるのか?

痛みを、くれよ。今ここにいることをはっきりと、感覚させてくれ。忘れられないくらいの強い痛みを、刻んで、






作品名:やさしい窒息死 作家名:みざき