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僕の名は君の夜 / サンプル

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 梅雨が明けた途端、空が高くなってその分陽も高く。
「…あっつ…」
途中で寄ったコンビニで『しろくま』というのを買ってきたが、溶けていませんようにと祈りつつボロアパートのブザーを押した。開いてる、とだけ返事があったきりなのは、勝手に入れということなのだろう。
ドアを開けるとすぐ脇についている小さなキッチンに、茶度が立っていた。手にはカップ麺の空容器。その白い発泡スチロールの器の中で、小さな魚がひらりとした。
「どうしたの、これ」
 赤い、小さな金魚。まだ祖父が生きていた頃連れて行ってもらったお祭りでよく見た魚。
 茶度は金魚が入っていたらしい小さなビニール袋をゴミ箱に放り込むと、向こうへ、と言うようにリビング兼寝室を指した。
「友達にもらった」
 …のは昨晩のことで、金魚すくいでもらったものを押し付けられたのだった。時間も遅かったのでそのままにして、ちょうどいい大きさの入れ物を探したらカップ麺の空容器しか見つからなかったらしい。
 薄いカーテンを通して入る夏の白い明るさの中、水の中の金魚はきらきらと宝石のようだ。茶度は容器を覗き込みながら、何度もかわいいな、と独り言のように言う。雨竜は初め、相槌を打っていたがあまりに同じことを繰り返すのでほったらかすことに決めた。
「おみやげ、溶けるよ」
「お」
 家主に突き出したビニール袋から、水滴が落ちて畳みにシミを作った。
「水槽って、いくらくらいだ」
「大きさによるけど、プラスチックのはそんなに高くなかったと思うな。…まさか買うの」
「いつまでもこれじゃかわいそうだ」
 やっぱり溶けかかっていた『しろくま』をレジで付けられたスプーンでじゃくじゃくやりながら、茶度が容器をつつくと金魚は驚いてまたひらひらと踊る。
「水草と、ビー玉とか入れたらきれいだろう」
「そうだね」
 まだカチカチのみかんとパイナップルの欠片を口の中でゆっくり溶かしながら、雨竜も器を覗いた。
「お祭りの金魚って弱いんだよね」
「そうなのか?」
「飼ったことない?」
 茶度が頷くのに、珍しい、と言いたげな顔で柔らかくなった氷をすくい口の中の果物と一緒に飲み込んだ。ついでに
「すぐ死んじゃうよ」
 その言葉も一緒に。
 小さい頃からペットを飼ったことがないと言っていた茶度は、初めて家に来た生き物が嬉しくて仕方がないようだ。まだ硬い部分の多い『しろくま』を一人でさっさと食べてしまうと、ひらひら花びらのような赤い魚を上から見つめている。

 そんなもの、すぐに死んじゃうんだよ。
そうしたら君、

 手が、頬が、同じところに触れてきた。
「茶度くん、僕まだ食べてるんだけど」
「待ってたら明日になるな」
 珍しく前髪を上げているので、鳶色の瞳全部が目に入ってくる。スプーンを銜えたまま、雨竜は言った。
「…これ、冷凍庫入れてきて」
「うん」
 水滴が垂れるのも構わず茶度はカップを持って出て行き、雨竜は膝を抱えて金魚に目をやった。

こんなもの、すぐに死んじゃうんだよ。
そうしたら君、泣くだろう?


 …熱中症でも起こしそうだな。

汗みずくの半身を起こして、浴室から戻ってきた茶度から絞ったタオルを受け取りながら、雨竜は言った。
「金魚、元気なうちに川に放した方がいいと思うよ」
「飼うの、難しいのか」
「自分の面倒見るので手一杯そうな君に、できる?目を離すとすぐ弱っちゃうんだよ?」
 と、タオルで体を拭きながら金魚の器へ顎をしゃくった。茶度は親に言い返せない子供のように、下唇を噛んで雨竜を睨みつけた。雨竜も答えるように体を拭く手を止め、鳶色と紺碧の眼がお互いを見た。
「………」
 ぷっ、と吹き出して先に目線を外したのは雨竜の方だった。
「ごめんごめん、あんまり浮かれてるから、いじめたくなった」
「おまえ…」
「いいんじゃない、お祭りの金魚でもすっごく大きくなったのとかいるって話だし」
「はは…それは楽しみだ」
 茶度は、いつも置いていかれる。両親に 兄弟に 親戚に。
失くすことの辛さと、置いていかれることの辛さ。十五になる前にその両方を知ってしまった。
居場所を探すように、国を渡った。ペットを飼ったことがないのは、いつそこを離れるか分からないからだ。命に責任を持てないからだ。でも今なら、少し安心して何かを側に置いておける。
それは良いことだと思う反面、またそれを失くした時のことを思うと雨竜は胸が苦しくなった。一体、誰のどんな仕業で、彼がこんな目に遭うのだろう。
「もう、慣れた」
 なんて、ローチェスト上いっぱいに並べられて写真を見ながら。
一体誰が言わせているのだろう。


そんな小さな魚でも、君は泣くだろう?
作品名:僕の名は君の夜 / サンプル 作家名:gen