ジャスミン
というのがちょっと前提。
帝人は波江のいれてくれた中国茶に疑問を思いながらも飲む。
花が浮かんだ耐熱グラスからさわやかな香り。
食後なら胃にいれた油ものも吹き飛ぶだろうが今は逆に食前だ。
食前にだってお茶は出すのだろうが肝心の夕食が出てくる気配がない。
いつもはこの時間には台所からいいにおいがするのに今あるのはジャスミンのかぐわしさだけ。
「何か言うことはない?」
「はい?」
帝人はわからないと言うように首を傾げる。
ずずっと波江に顔面を近づけられて、手の中のいれたてのジャスミン茶に困る。
こぼれたら火傷する。自分ではなく波江が。
「何か言うことはない?」
もう一度波江は繰り返す。
「園原さんと別れた、そういう話ですか?」
帝人の言葉に冷たい瞳で「わかってるじゃない」と波江は告げる。
上機嫌に帝人の隣に座り波江は足を組む。
「彼女のことは好きですけどね」
さらっと付け足された言葉に波江は笑顔のままソファを引きちぎる。
高級な革張りだったそれが見るも無惨。
火事場の馬鹿力は感情の高ぶりで発生するのだろう。
バーテンダーさんを見ているとわかるが火事でなくても発揮される。怖いことだ。
「彼女も僕のことが好きです」
帝人はソファの上で波江に押し倒される。
申し訳ないと思いながらも床に広がるジャスミン茶。
耐熱グラスは丈夫で割れることなく固い音を立てたが波江は気にすることもない。
床から湯気があがる。
視線で人を殺せそうなぐらいに睨みつけて詰め寄る波江の頬を帝人は困ったように指でなぞる。
「美人が怒ると怖いです」
笑いかければ拗ねた少女のような顔でそっぽを向く。
それでも苛立ちは収まらないのか帝人の服に手をかけようとする。
「犯してあげるから泣き叫びなさい」
「波江さん、嬉しいなら素直に喜んでくれていいんですよ」
「嬉しいわけないでしょ。自意識過剰もいい加減にしなさい。あんたなんか誠二の次なんだから」
「光栄です」
帝人はこれ以上なく嬉しそうに笑う。子供がおもちゃを与えられて無邪気に喜ぶような顔。いまこの場では不釣り合い。
「馬鹿じゃない」
「そうですね。波江さんも賢いのに抜けてますからお互い様ですね」
帝人が苦笑する。
「なによ」
「マダガスカルジャスミン」
「あんたの誕生花じゃない、だから」
波江が続けようとする言葉を帝人は唇に人差し指をおいて止める。子供に言い聞かせるようなゆっくりとした優しい声音。
「ジャスミン茶とは別物なんですけどね。ジャスミンとついてても」
床に広がる液体を指さして帝人は困ったように笑う。
毒気が抜かれたとばかりにぽかんとする波江に馬乗りにされたまま帝人は「ありがとうございます」とまた笑いかける。
落ち込む自分を慰めるための気遣いを感じないほど鈍感ではない。
帝人は少し前に誕生花や誕生石の本を購入していた波江を思い出す。
(自分のところに目を通しててよかった)
クールな印象の強い波江の珍しい表情に帝人は安堵しながら「傷心旅行に付き合ってくれますか?」ともちろんイエスとしか返されない言葉を口にする。
波江のジャスミン越しの遠回しな誘い文句も冷たさの奥の優しさも帝人にはひどく心地よかった。
突き放しているのに捕らえて離さない。
冷静さと苛烈な情熱を極端に合わせ持った人だと帝人は波江に思う
「悲しくないの?」
「悲しいですよ」
「私のこと、憎くないの?」
「どうしてですか?」
「私のせいでしょう」
「そういうのって自意識過剰っていうじゃないんですか?」
先ほどの波江の言葉を返す。
「性格悪いわ。悪くなったわ」
「周囲の大人のせいですね」
帝人の皮肉に波江は帝人の上から立ち上がり長い髪をなびかせる。
ぴちゃりと床にこぼれたジャスミン茶を踏んだようで波江が微妙な顔をする。
帝人はやはり苦笑しながら起き上がり、上着を波江の肩に掛ける。
「とりあえず、洋服着ましょうか?」
美女は全裸で恥ずかしげもない。