不安
なんて言ったところで、帰ってくる返事は「んー」とか「ああ」ぐらいのもんだ。
しかし、今日は違った。
返事がないのである。
そのままリビングまで行くと、チカちゃんが缶ビールを傾けつつ、書類をめくっていた。
やけに真剣な表情で、俺の声にも存在にも気付いてないようだった。
「チカちゃん?」
「ん?」
書類から目を上げて、俺と目を合わせたチカちゃんは悪い、と詫びてきた。
「今日はかまってやれねぇぜ」
俺の気持ちはお見通しか。
「別に構いやしねぇ。…けど、俺がいたら邪魔か?」
持ってきた袋をローテーブルに置きつつ尋ねたら、チカちゃんはいいや、と答えた。
「じゃ、横に座っててもいいよな?」
「ん?構わねぇが、退屈だと思うぜ」
チカちゃんはまた書類に視線を落として、真剣な面持ちになった。
苦笑しつつ袋の中から自分の分のビールと、二人で食べようと思って持ってきた酒の肴を出して、テーブルに並べる。
缶ビールで喉を潤して、ふーっと一息つく。
「親父くせぇぞ」
「…てめぇに言われたくねぇな」
チカちゃんは気を遣ってか、俺に声をかけてくれる。
そんなチカちゃんに俺は知らないうちに甘えてて、隣にいないと不安になる。
それからしばらくはぼんやりと考え事をしながら、飲んでいた。
考え事と言ってもこの隣にいる男のことばかりであるから、どうしようもない。
こいつは本当は俺のことをどう思ってるんだろうとか、入り浸ってる俺を迷惑がってないんだろうか、とか。
はあ、と俺らしくもなくため息をついたときだった。
後ろから肩に腕がまわされて、いきなり引き寄せられたのである。
「どうかしたのか?」
チカちゃんの柔らかい声が頭の上から降ってくる。
「…どうもしねぇよ。だが、しばらくこのままでもいいか?」
チカちゃんの肩に頭を預けて寄り添うと、チカちゃんは俺の頭を軽く叩いた。
「気のすむまでこうしててやるよ」
「…悪ぃ…」
「謝ることなんてしてねぇだろうが。それとも俺に謝りたいことでもあるのか?」
それはたくさんある。山程あるが、言い出したらキリがない気がして、俺は首を横に降った。
「じゃ、気にすんな」
チカちゃんは空いてる方の手で書類に何やら書き込んでいる。多分、チカちゃんの頭の中ではシステムは大体組み上がっていて、後は細かなところを気にするだけだろう。
そんなチカちゃんの手に触れてみる。
書類の上を滑らせる手を止めて、チカちゃんは俺の方を見てきた。
「政宗?」
チカちゃんは黙っている俺の顔を覗きこんでくると、軽く笑った。
「…政宗…、そんな顔してんじゃねぇよ」
「そんな顔って俺にわかるわけねぇ……」
チカちゃんは俺の頭を押さえたかと思うと、唇を重ねてきた。
唇を割って入ってくる舌に自ら舌を絡めて、今、この瞬間を脳に刻み込もうとした。
「政宗、大丈夫か?」
何が大丈夫で何が大丈夫じゃないのか、俺にはわからなかった。
チカちゃんが言う大丈夫ってどんな状態なのか。チカちゃんから見たら、今、俺は大丈夫じゃないってことか。
「…わからねぇよ、でも、今日は帰る」
「平気か?」
これ以上、チカちゃんに気を遣わせられるかよ。
「平気だ。気にせず、仕事を続けてくれ」
「政宗!」
「今度、添い寝してもらうから、いい」
チカちゃんの心配そうな顔を打ち消すように、俺は笑顔を見せた。
じゃあな、とソファーから立ち上がったところで、政宗、と呼び止められる。
「何だ?」
「俺は迷惑だなどと、思っちゃいねぇぞ」
この男、本当に察しがいい。全部わかっているのに、あえて何も言わないでいる。
たまに、こんな風に言葉に出してきたりするのだが、いつもタイミングがいい。
それがすごく心地よくて。
だから、ついつい甘えるのだと、最近気づいた。
「…何のことだ…?」
そ知らぬふりで返すと、チカちゃんは苦笑して、言葉を続ける。
「別に。あ、それからな」
「ん?」
「営業一部の部長に伝えてくれ。俺が惚れてるのは、会社じゃ人一倍えらそうで高飛車で部下には恐れられてるのに、実は寂しがり屋で結構甘えたがりなやつなんだ、ってな」
……なんでこいつは、欲しいときに欲しい言葉を出してくるのか。
不安とかもやもや考えてたものが、すっきりなくなった気がして、気が軽くなった。
「わかった、伝えておく。今度鳩尾に一発喰らっても知らねぇぞ」
「ま、それもありだろ?」
「チカちゃんのチャレンジャー精神に敬意を表するぜ」
さらに軽くなるように、チカちゃんにお礼を。
「チカちゃん…、thank you」
「どういたしまして」
にっこり笑うチカちゃんを見て、俺はやっぱりこいつに惚れてるんだと、自覚しなおして。
でも、こいつに惚れてる限りさっきのような不安が付きまとうのだろうけれど。
それでも。
俺はチカちゃんの隣にいたいと思う。