いまいましい
嫌がらせのつもりで缶コーヒーを手渡したが、意外にもあっさり礼を言われてしまい拍子抜けした。
「・・・・・・ブラック飲めたっけ?」
「飲めないことはねぇよ。嫌いなだけで」
篝火によって、彼の臥せた睫毛に影ができた。その様子を眺める。儚さを孕んだその姿にアルフレッドは一瞬胸の奥がざわめいたのがわかった。
沈黙が流れ、睫毛の下で瞳が動いた。かすかに。コーヒーで暖まった唇が、やけに艶めいて見えた。それが開かれるのにとても長い時間がかかったようにアルフレッドには思えた。
「長丁場になりそうだからな。眠気も覚めてちょうどいいよ。」
「ふーん。嫌がらせのつもりがさすが俺だね。Good idea!」
「それにしても動かねーな。」
ウインクをきめたアルフレッドを見事に無視してアーサーが呟いた。茂みの中から目標の方角だけを見て。無表情に。
―――楽しくない。つまらない。
次は蛇でも探してこようかとアルフレッドが後ろを向くと、ぐい、とその裾は握られた。
「・・・なに」
振り返りアーサーを見るが表情も何も読み取れない。薄い闇の中でその大きな目が発光するようにこちらを見ている。NYに新しくできたキャンディショップの飾りみたいだ、とアルフレッドはぼんやり思った。かすかに息を飲む音が聞こえた。次に小さく息を吸う音。前者がアルフレッドのもので後者がアーサーのものだということに気づくと同時に、裾を握る力が強くなり、「もうどこにも行かないでくれ」と呟かれる。
「なん、」
「いい加減バレるだろ。早くしゃがめ。そのでかい図体を隠せ。」
「・・・・・・」
「ったく、お前に密偵は向いてないって。ほら、早く座れ」
「・・・はーい。」
アーサーが大げさにため息をついた。首を振ってぶつぶつ文句を言っている。アルフレッドはアーサーの隣に座りアーサーの顔を見た。いつも通りの顔だった。憎たらしい。かわいげがない。ちんちくりん。アルフレッドは口の中で唱えて小さく頷いた。
「アルフレッド。」
「なにさ。」
「飽きたなら戻っていていいぞ。」
「飽きたわけじゃないぞ。つまらないだけ。」
「密偵は少しの油断が命取りなんだよ。やかましくするつもりならどっかいけ。」
冷ややかに言われ、アルフレッドは不愉快な気持ちになった。自分だって、アーサーに缶コーヒーを買ってきたり、ちょっかいだしたり、嫌がらせしたりで疲れている。なのにアーサーはまるで自分ばっかり苦労しているみたいだ。
「保護者気取りも大概にしたらどうなんだい。」アルフレッドが不機嫌な感情を隠さずに言うと、アーサーはまた無表情になって黙りこんだ。
危ない仕事だと聞いてせっかく援軍にきたというのに感謝の一つもされていないこともアルフレッドにとっては不愉快だった。
「あのさあ、」
「なんだ。」
「こんなところでじっとしててもしょうがないじゃないか。とりあえずのりこんでみたらどうだい。」
「おい。」
「片っぱしから捕まえて情報を聞き出したほうが効率的だぞ。」
「人の話を聞け。」
「聞いてるぞ。要はこの方角に来る連中を」
「アル!」
アーサーが大きな声を出す。「そんな大きな声だしてバレてもいいのかい?」アルフレッドが忠告すると、アーサーはカッと顔を赤らめ俯いた。
「ねえ。」
「だめだ。」
「なんで?」
「お前にはわかんねぇよ。」
「わからないな。君みたいな耄碌した人の考えは。」
「そうだ。お前にはわからない。だからもういい。」
「・・・・・・」
「もういいんだ。ほっといてくれ。」
意味がわからない。
悲痛な声は意味のわからないことをつらつらと語り、聞くに値しないのでアルフレッドは空を見た。どこまでも暗い空だった。敵の篝火が空の闇に吸いこまれていく。秋の長夜っていうんだっけ。こういうの。アルフレッドはぼんやり思った。菊が前に言っていた。いつまでも夜が明けない。まるでいまの自分たちのようだ。一体いつまでこうしているのだろうか。彼は何に立ち向かっているのだろうか。なにを待っているのだろうか。アルフレッドにはまったくわからない。ただ、わからなくても、アルフレッドがそこを去ることはなかった。大きな夜の中で彼さえいれば満足だった。きっと。だから泣かないでほしかった。
「お前なんか、」
遠くで、虫の声が聞こえた。
***
ハローまったくしけた声だね、いやになっちゃうよ。え、なら電話するなって?いやだなしたくてしたわけないじゃないか。ところでこないだの会議のことだけど。
チン
やかましい電話が終わり、アーサーは深くため息をついた。まだあの高い声が耳の中で響いているようで思わず眉間にシワを寄せる。まったく意味のわからない電話だった。会議で決まったことの確認なんていまだかつてアイツがしたことなどなかったはずだ。
「わけわかんねー奴。」
完璧な手順で淹れた紅茶を飲みながら、アーサーは窓から秋の訪れを感じる景色を見た。草木が黄色く変化しはじめ、空は遠くはれている。
アルフレッドの気まぐれなんて、いつものことだ。わけはわからないが、いいだろう。そう思える自分はきっと今、すごく機嫌がいい。
思わずでてしまった鼻歌も、からかう人間がいないならいいか、と一度止めて、歌い直した。
***
不思議な夢は大袈裟なほど自分の気持ちを揺さぶった。彼の様子が気になって電話するなんてこの先100年ないだろう。
携帯電話をソファに放り投げ、アルフレッドはコーヒーを淹れるためにキッチンへと向かった。
電話をしたらどうってことない、いつもの口悪い彼だった。一言二言言葉を交わせば感じるものはもはや苛立ちしかなくなり、早々に電話を切った。まったく、せっかく自分が心配してやったというのに失礼な眉毛だ。
コーヒーをすすりながらリビングへと戻り、部屋の窓から外の景色を見る。窓の外は雲ひとつない快晴だった。それを見てアルフレッドが思い出すのは、こんな快晴がとても似合わない、アーサーのことだった。到底似合いそうもないけれど、こんな日は彼に空を見せてやりたいと思う。すると彼はきっと言う。「こんな日には薔薇の害虫駆除がはかどるな。」そして「お前の庭ももっと華やかにしたらいいのに。」と頼んでもいないのに庭いじりを始めようとする。そんな彼をピクニックに誘うのだ。
「まあ、」
しないけれど、できないけれど、夢の中の彼だったら誘うこともできるかもしれない。とアルフレッドは思った。夢の中の彼に、今の俺だったら。夢の彼は寂しそうだった。とても、ほっておけないと、あのとき自分は自覚していなかったけれど確実にそう思っていた。
・・・しないけれど。できないけれど。
目をつぶって先ほどまで耳元にあったアーサーの声を思い出す。とても遠いと思った。苛々するけれど、電話を切る瞬間に、もっと繋げておけばよかったと思った。ついに自分自身までわけがわからなくなってしまった。これは相当なホラーである。なぜか泣きたい気持ちになって、アルフレッドは首を振った。「アーサーの馬鹿。」
ああもう!
----
「Oh,bother!」