おかしないたずら
「トリックオアトリート!」
「………気配消して来るのやめていただきたいんですけどね」
「四木の旦那、トリックオアトリートですよぉ」
「…なんですか、まだ仕事中なんですが」
事務所の一室で残っている仕事を片付けていた四木は、音もなく現れた赤林に視線を向けることもなく、淡々と言葉を返した。
「まあそう冷たいこと言わないで下さいよ、旦那、今日が何の日だか知ってます?」
「月末ですか」
「そう、ハロウィンですよハロウィン」
「…私の声聞こえてます?」
「いやあ、さっき専務のお嬢に会ったんですけどねぇ、かぼちゃのおばけの入れ物持って、トリックオアトリート!なんてそこいらの連中に言って回ってたもんですから」
ヘラヘラと笑いながら、赤林は手近に会った椅子を引き出して四木の後ろ側に腰かける。四木は、まだ仕事中なんですけどね、と再度遠まわしに嫌味を言ってみたが、赤林の都合のいい耳にはどうやら届いていないようだ。止まらないお喋りに溜め息をついて、四木は仕事を片づけることに集中した。
「風本達も今日はどこだかでハロウィンパーティーがあるからって、もうさっさと帰っちまいましてねぇ…子どもだけじゃなくていい大人も浮かれるもんなんですかねぇハロウィンってのは」
「……………」
「まあ大人が浮かれるのと子どもが浮かれるのとじゃ全然意味が違うんでしょうけど。大人はお菓子よりもイタズラが目的だろうしねぇ」
「……………」
「四木の旦那も、このあと予定あったりするんですかい」
「…あったら仕事なんてほったらかしてさっさと帰ってますよ」
「はは、そりゃそうだ」
「ちょっと今集中したいので…赤林さんも今日は早くお帰りになったらどうです」
書類をまとめる手を動かしながら後ろを振り返ると、いるはずの場所から赤林の姿が消えていた。と同時に、自分の真後ろに気配を感じて、四木はうんざりしながら再度振り返る。
「…驚かさないでくださいよ」
「いやぁすいません、四木さんがあんまりつれないこと言うもんだから」
赤林は相変わらずヘラヘラと笑っているが、この男はその表情と言動が不釣り合いなことが多く、四木は気疲れすることが多かった。だがそれも最初のうちだけで、つき合いの長い今となってはもう慣れてしまっているが。
「四木さん、トリックオアトリートってどんな意味か知ってます?」
「…お帰りにならないんですか」
「まあまあ、ちょっと付き合ってもらえれば帰りますから…で、知ってます?」
「………お菓子をくれなきゃいたずらするぞ、でしたっけ」
「よくご存知で」
「……………」
満面の笑みと回りくどい会話の進め方から察するに、この男はまたろくでもないことを考えているに違いない、と四木は思った。いい歳をしていい加減にしてくれないだろうかと、思わず頭を抱えたくなる。
「意味が分かっているんだったら、最初に戻ってもらいたんですけどねぇ…まあ、改めて言わせてもらうと、トリックオアトリート、四木さん」
「……………」
やっぱりか、と四木は思ったが、こうなってしまったらもう、何を言って咎めても無駄だと知っている。
「冗談やめてくださいよ、大の男つかまえてお菓子か悪戯か、なんて」
「あれ、冗談なんて言った覚えはないんだけどねぇ…お菓子がないなら、遠慮なく悪戯させてもらおうかな」
「どこの変態ですか」
「はは、今日はそれが許されてる日だってことで、観念してくださいよ」
赤林が四木の目の前に跪くかたちで、視線の高さを合わせた。愛用しているらしい色眼鏡の奥からは、焼け付くような熱い視線が送られている。
「…赤林さん、ここ職場ですよ」
「いいですねぇ、そういう台詞…盛り上がるってもんだ」
「ちょっと…」
赤林が四木の肩を押さえつけるように手をかけた。本気で悪戯とやらを始める気らしい。
四木は短く溜め息をつくと、ぐいっと赤林の襟元を掴んで自分の方へと引き寄せる。
そして、そのままの流れで一瞬だけ、唇と唇を触れ合わせた。
「お………っと、なんだこりゃ」
同時に、赤林の口内には小さな玉のような物が押し込められる。
「なんだ…?飴?」
「あいにく、菓子と呼べるようなものはそれしか持っていないんですよ。食べかけなんですが、渡したんだからこのままお帰りいただけますよね」
言いながら、四木は勝ち誇ったような、挑発的な視線を赤林へと向けた。赤林はそんな四木の視線を受けて目を丸くする。珍しく積極的なことをすると思ったら、なんだ、こういうことか。
トリックオアトリート、つまり、飴をもらった自分はもうこれ以上悪戯はできないということだ。
「は、はははっ…こいつは、一本とられたねぇ」
「お疲れさまでした」
四木は優越感たっぷりな笑みを浮かべている。それがいやに扇情的で、赤林は思わず目を奪われた。じっと見とれていると、仕事に集中できない、と今度こそ部屋を追い出されてしまう。
扉を出てすぐのところで赤林は、とん、と背中を壁につけ立ち止まった。まだ口の中に残っている小さな飴玉をころころと、存在を確かめるように転がしてみた。
食べかけですが、渡したんだからお帰りいただけますよね、か。自分がどれだけ気障なことをしてるのかわかってんのかねぇあの人は。
先程の四木の表情を思い出して赤林はふっと小さく笑う。
「…しかし、ホント参ったねぇ。あんなことされたら、余計悪戯したくなるじゃないの」
独り言にしてはやや大きめの声で胸の内を明かしてみたが、赤林の淡い期待も虚しく、部屋の中からはただ、蛍光灯の明かりが漏れているのみだった。