trick or treat
自然にかたかたと揺れはじめた左腕をもう一方の手で抱きしめた。車までそう距離はない。ジーノの長い足ならばあと十歩もかからないだろう。ポケットから鍵を出してロックを解除し、かちりと鍵があく音を聞いた。あと、五歩、四歩、三歩、二歩、一歩……アウターハンドルに手がかかったところで、
「遅い!」
と、震えを帯びた声が耳に入った。
夜の闇が彼を隠していなかったら、ジーノは間抜けな面相をその声の主に晒してしまっていたことだろうが、生憎と今日は曇り空で駐車場に設置された頼りない街灯にはそこまでのサービス精神はないようだった。自分の幸運にひそかに感謝したくなる。
声の主は、ちょうど助手席のドアにもたれかかって座っていたらしい。屋根越しに伸びた、見慣れたシルエットは、ジーノを非難するように言った。
「なにしてたんだよ、こんな時間まで」
「ちょっとした話しあいさ。たまにはボクもフロント側に自分をアピールしてみようと思ってね。もちろん、日ごろの活躍からすると別にいらないとは思うんだけどさ」
「寒いから早く鍵開けろ」
「…開いているよ。さ、どうぞ」
言い終わらない内に俊敏な動作で声の主は車のなかにもぐり込んだ。ジーノも小さく笑いながら続く。車内は当然暖かいわけではなかったが、直に風が当たらない分まだましと言える。それでも特に地球の環境に気を使っておらず、かつ恋人と自分を大切にしたいジーノは、エンジンをかけて手際よくエアコンを操作した。温かい風が排出され、すこし待てば両手をこすり合わせなくても済むようになった。
「それで何の用かな、タッツミー?」
小さな明かりは、助手席に座りくちびるを尖らせる男の横顔を静かに照らしてくれた。もちろんそんなものがなくても声だけでジーノには誰だか分かっていたけれど、恋人の顔を改めて確認出来てうれしくならない輩はいない。
「トリックオアトリート」
男――達海は、ぽつりと、けれどなめらかな発音で、その言葉を口にした。意味が分からないとはさすがに言わない。だけど、こんな寒さの中わざわざ長い時間待ってまで言うようなこととは思えない。
「どうしたんだい、急に」
「別に。さっき突然、ハロウィンってこと思い出しただけ」
「お菓子ねえ……一応ポケットに飴が入っているけど」
「じゃあ、それでいいよ」
ポケットをさぐると、誰かからもらったか忘れてしまった飴玉がひとつ入っていた。ポップな包み紙を放るように渡せば、悪いなとちっとも悪びれていないお礼が返ってくる。文句は、ないようだった。どうやら本当にこんなもののためにわざわざ達海は来たらしい。
達海が意図の見えてこない行動をするのは初めてではないが、これにはさすがのジーノも戸惑ってしまう。だが、戸惑ってばかりではいられない。戸惑う側よりも、戸惑わせる側でいるほうがずっと楽しいからだ。
にっこり笑って、身体ごと達海の方へ近づく。くちびるを尖らした達海は引くことこそしなかったが、親切にもジーノに近づくようなことはしてくれない。いつものことなので、文句を音にするようなことはしなかった。代わりに、先程達海が口にした言葉をまんま返してやった。
わざとらしくまぶたの上下運動を繰り返す達海の口の中で、飴玉が転がる音がする。
「持ってたら、あんなこと言わないだろ、普通」
「じゃあ、答えは一つしかないんじゃない?」
お菓子がないならば、いたずら。よもや最初に問いかけて来た本人が知らない筈はないだろう。本人が言う通り達海はお菓子を持っていないようだし、何をしたって許されるんじゃないかと、期待に口元を緩めるがそれは長く続かなかった。
「……珍しいね、タッツミー」
爽やかなミントの味と、他人の感触。舌の上で転がる丸い感触を確かめれば、達海の顔に悪そうな笑みが広がった。
「そっちこそ、珍しい間抜け面だな、吉田」
「ひどいなあ、本当。君って、びっくりするくらいひどい男だよ」
達海からこういった行動に出るのはほとんど初めてといっていい。大体はジーノから動いて、なだめて時々お願いして、あるいは強引に動いてようやく自分からしてくれるというのに。嬉しくないと言ったら嘘になるが、どこか釈然としないものがある。
「ところで、これってありなのかな? ボクがあげたお菓子じゃないか」
「アリ、だよ。アリアリ。大体お前だって、誰かからもらったんだろ。だから、おあいこだよ」
こうなったらもうジーノの負けだ。逆襲する気も失せて、しばらくジーノは黙って飴玉をなめた。達海は車から降りる気はないようだ。送風機の位置をちょうどいいように変え、あげくにはラジオまで付けてしまう。若干ノイズがかった電波は、ジーノの知らない古い歌謡曲を流していた。今日は帰りたくないのなんて歌う女性歌手の声に導かれるように彼は言った。
「帰らないの?」
「お前は、帰って欲しい訳?」
「ううん……ねえ、タッツミー」
気が付けば靴を脱いで、シートの上で子供のように膝を抱えていた達海には、もうこの車から降りる気なんてまったくないようだった。
まったく分かりにくいな、と内心で苦笑する。ただ、そういうところを含めてジーノは達海のことが好きなのだから、そこを上手く汲んでやるべきなんだろう。手間はかかるが、達海のための手間ならそれほど惜しくはない。
「寒いと人恋しくなる。そう思わないかい?」
「俺は別にそうでもないけど」
「ボクはそうなんだ。さて、そろそろ車を出すからシートベルトしてくれない?」
「……おう」
どうやら反論はないようである。かちりとシートベルトが締められる音を聞きながら、ジーノはぐっとアクセルを踏んだ。
作品名:trick or treat 作家名:マツモト