淋しい夜には隣に貴方を。
銀時がそう呼ぶと、その黒髪の男がくるりと振り返った。少しだけ開けられた襖から漏れる、淡い月光に照らされて、シルバーグレイの彼の瞳が輝く。
「何だよ」
端正な顔に、低くて心地の良い声が返ってくる。
「…何でもない…」
銀時は目を伏せた。
手にした酒を、そのままぐいっと呷る。
「どうしたんだよ」
土方がするりするりと猫のように移動してきて、銀時の横に座った。
まだ来たばかりで、酒を呑んでいない彼は、至って冷静なのか。
「…苦しいか」
「………うん」
「どう…すりゃあいい」
不安気に覗き込んでくる土方は、優しい。
その優しさに、つけこんでしまいたくなる。
でも。
そんなのは。
「…銀」
名を、呼ばれた。
それは、平素の固く冷厳なものではなくて。
甘く、柔らかに穏やかに。確かな劣情と混沌を持って、囁かれた。
「…どーする」
「…誘ってる訳?」
銀時は皮肉げに口の端をつり上げながら、言う。
「銀さん今、結構余裕無いから。離れた方が良いかもよ?近くにいたら、何するか分かんない」
たまに、あるのだ。
血が、滾る。
記憶が鮮やかに。
烈火の如く視界を支配しながら。
生々しい、感触や。
息遣い。
すぐ目の前で、消えてゆく命の灯火が。
自らの、血塗られた刀を持つ、震えぬ手。
思い出す。
「…お前が、それで楽になるのなら、構わねェ」
土方が、するりと着流しから肩を抜いた。
白くて細い、二の腕が露になる。続いて、薄くなだらかな胸板。
それは、誰が見ようと欲情するようなもので。
微かに震えている彼の腕が、銀時をやっと思いとどまらさせた。
「…馬鹿」
「ぇ」
「馬鹿馬鹿。やっぱりお前は馬鹿。バァか」
銀時はそう繰り返した。
土方は目をしぱしぱさせて、その後顔をそっぽに向けた。少し朱が差している。
「…そう簡単に体なんか出すんじゃねェよ」
「…いつもは、もっと簡単に抱くじゃねェかよ」
「今日は、…違うんだ」
銀時はそのふわふわとした髪を掻き回した。
「きっと今抱いたら、滅茶苦茶にしちまう。土方が止めろっつっても、止めてられねェ」
そこで銀時は気弱な笑みを漏らした。
「嫌なんだ。傷付けるの。もう、誰も傷付けねェ。守って生きるって、決めたから……」
土方が、こちらを見た。
真っ直ぐ、と。
まだ剥き出しのままの腕を、すっとこちらに出そうとして、躊躇い、下ろす。
懸命に言葉を探して、逡巡を繰り返す彼は、もういっそ健気であって。
普段会えば憎まれ口を叩きあったり、冷ややかだったりするのに。
堪らない。
「…あのねー」
銀時は困ったように、土方を見つめた。
「我慢してんだよ、俺も。そんな格好で、そんな可愛いことされちゃあ、理性なんてすぐ崩れちまうよ」
溜め息を吐きながら。
それでも優艶に。
「…なァ。だから、ごめん。今日は、ひとりにさせて?」
来てもらって、悪いんだけど。つけ加えると、土方はゆらゆらと瞳を揺らした。
「てめェで呼んどいて、随分偉そうだな…おい」
返る言葉も静かで。
土方は着流しを元に戻して、煙草を口にした。そのままライターで火をつけながら、立ち上がる。
「…行く」
「うん。…ごめん。ごめんね」
「謝んな」
土方がくるり、と踵を返し。すっと部屋を出てゆく。さっきまでは確かにすぐ側にあったぬくもりが。
もう、なくなって。
失ってから、気付いた。
寂しい。
淋しい。
「…あー…。馬鹿は俺か」
呟いた言の葉は、自分ひとりの部屋に響いて。
紛れて消えた。
「その通りだよ」
「っ!?」
聞こえたのは、帰ってしまったはずの男のもので。
襖の向こうで気配ががさりと動いた。
「…何で。…帰ったんじゃ、ないの」
「誰が帰るか。今にも死にそうな顔しやがってアホ」
「…酷いな」
「おめェの今のツラの方がよっぽどひでェさ」
土方がふんっ、と鼻を鳴らしたのが聞こえた。
暫くの沈黙のあと、不意に、
「入って良いか」
「…今更」
律儀に尋ねるのが、とても彼らしい。
まどろっこしくて、頑固でストイック。
そんな所に惚れているのは、他でもない自分なのだから。もう、敗けだ。
「いーよ…」
「落ち着いたか」
土方はガサリ、と手にしたレジ袋を顔の前まで持ってきて、振る。
「何買ってきたの」
「…おでんと、熱燗。寒いし、食べたいだろ」
「…まあ」
「人間腹減ってると、いらねェことぐちゃぐちゃ考えちまうもんなんだよ。沢山買ってきたから、好きなだけ食え。で、寝ろ。満腹でぐっすり寝たら、頭も冴えんだろ」
早口に捲し立てると、土方はおでんと箸を銀時に押し付ける。自分はさっきのことを気にしてか、少し離れた所に座り、冷酒を呑む。
「…我が儘言っていいかなぁ」
「おめェなんて、いつでもどこでも我が儘じゃねェかよ」
土方が片眉を上げた。
銀時はのらりくらりと笑顔を浮かべて、かわしながら、
「こっち来てよ」
と頼む。土方は口をつぐみ、ぼそりと、
「さっき寄るなっつったじゃねーか…」
「もう落ち着いたもん。寒いし、ほらほら。おいで」
手を広げて土方を呼ぶ。
躊躇っていた土方だったが、決意したのか、じりじりとこちらににじりよってきた。銀時は笑みを深くしながら、
「つかまえたっ」
と土方を胸に閉じ込めた。薄く細い体が、銀時の胡坐と腕の中に収まる。
「ちょ、おま、馬鹿」
「誰も見てない。いいじゃんか、これくらい」
「ちがっ…!お…俺が!恥ずかしいんだよ…っ」
顔を真っ赤にする土方は。可愛いなんてもんじゃなくて。強烈で。
「…いーい?」
ふに、と柔らかな頬を指で摘むと。
「んむぅ…」
土方は唇をとがらす。それでもちゃんと
「…いーよ」
と返してくれた。
あぁ。
コイツが居てくれて、良かった。
荒立つ心の波が、すっと引いていく。
静かに。
ただまっさらに。
変わる。
変えられてゆく。
こんなにも。
愛とは。
人を愛すのは。
愛しいと思うのは。
「トシ君……」
名前で呼ぶと、抱いた土方の肩がひくりと揺れた。
「ありがとう…」
耳元で、囁いた。
とびきりの、甘い声。
「幸せだ…。すっごく…」
すると銀時の首に土方の腕が回ってきて。
向き合う顔のうつくしさに息を呑んだ。
「トシ君…?」
「…俺もだよ…。銀時…」
大輪の花が咲いたような、その眩くて華やかな笑顔を、銀時は一生忘れないだろう。
おわり。
作品名:淋しい夜には隣に貴方を。 作家名:神木晶