1/fゆらぎ
一つ年下の後輩はそう言って僕にさよならを告げた。高校三年の冬だった。寒い日の夕方で、風が強かったのを覚えている。少し明るい色の彼女の髪とマフラーが校舎の裏を吹き抜ける風に舞っていた。遠くで設楽のピアノの音がしていた。
バンビと友達に呼ばれる彼女の黒目がちな瞳はいつも少し潤んで見える。その時は本当に涙を湛えていたのかもしれない。でもそれを僕は曖昧にしか覚えていなかった。目を見られなかったからだ。
受験戦争を潜り抜け、僕は無事に大学へと進学した。設楽も自分自身と向き合い、ピアノを再開していた。本気を出せば先に進むことはできるのだ。
嫌いではなかったのだ。最初から。
「ああ、設楽のピアノはいいな」
大学生の長い夏休みに入って、僕は設楽の家に遊びに来ていた。来年から留学する彼とこんな風にだらだらと過ごすのももうこれが最後の夏かもしれない。
きちんと片付いた部屋は広く、さすが名家のことはある。姉が転勤のために出て行き、その部屋を譲り受けた僕は前よりも少し居住空間が広がっていたけれど、ピアノの置ける彼のものとは比べ物にならない。
「僕に音楽の良し悪しは分からないけれど、設楽のピアノは好きだよ」
雨音のような音色が心地よい。眠くなりそうだ。人にとって一番気持ちのよい音は1/fゆらぎで、設楽のピアノはそれに近いのかもしれない。人の鼓動、電車の揺れ。胎内の遠い記憶と誰かに身を委ねる安心感。
「何で別れたんだ」
言葉と共に設楽の集中力が乱れて、ピアノの音が遠くなる。
あの冬のことは小さな刺のように僕の心に傷を残したけれど、甘酸っぱい青春の一頁として思い出のアルバムに貼り付けることで終わった。
「何でって……」
少し色褪せ始めた写真を覗きこまれたような気がした。不快ではないが、愉快でもない。ただ、懐かしさの中にある寂しさを指摘された気がした。
「おいおい、僕は振られた方だぞ。理由なら彼女が……」
「知ってる。でも原因はお前だろう」
言いかけた僕に設楽は遮るようにして言葉をかぶせた。ピアノは完全に止まってしまった。残念だ。もっと聞いていたかった。
「簡単に好きだなんて言うな」
突然、豪雨のような音が響いた。設楽が鍵盤を叩いたのだ。
「簡単になんて言ってない」
「言ってる。今だって、お前は考えなしに……」
「考えなしに?」
考えなしに好きだと言っただろうか? 僕の疑問は顔に出ていたらしい。設楽ははっとして乱暴に譜面を閉じ、何も見ずにピアノを弾き始めた。
激しい音の雨だ。それは優しい調べではなく、窓を叩く嵐の音だった。激情のままに動く白い指は美しい。
設楽は何を怒っているんだろう。いつも不機嫌な設楽だけれど、こんな風に黙って怒るのは珍しい。僕の知る限り、いつだって彼は自分の感情に素直で、嫌いなものを嫌いと言って憚らない。でも好きなものはどうか。
僕は設楽の好きなものをどれだけ知っているだろうか。納豆は嫌い。ピアノは好きだけれど、嫌いだった。派手な女の子は苦手。運動は得意じゃない。
「なんだか、設楽は嫌いなものばかりだな」
僕たちは何の話をしていたのだろう。そうだ。恋の話だ。恋は感情の中でもっともゆらぎの大きなものだ。あんな熱情が僕の中に眠っているなんて知らなかった。
「設楽のピアノは好きだよ」
「うるさい! この鈍感!」
僕は恋をしていた。完璧に振舞おうとする僕に揺らぎを教えてくれた人々に恋をしていたのだ。