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貴方の肉は不味い

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トントンと小気味良い包丁の音。コトコトと泡立つ鍋の音。しゅんしゅんと湯気を吹き出す釜――……

目の前で着々と食事の用意が整えられる様子を、用意を整える背中を、渡辺蘇芳はじぃっと見ていた。二人きりの昼食を終えて昼下がり、晩に仕事から帰ってくる叔父さんをご馳走で迎えたいと、俺の恋人、奥水ヤシロさんはこんな早くからもう夕食の用意に取り掛かっていた。そして俺はその背中を、何をするということもなくじぃっと見ている。
暇なのか?と言われたら別にそう言うこともない。邪魔になりたくないから近寄っては見ないけど、料理をしている様子を見るのはやっぱり面白いから。俺も一応料理はかじってるから興味はあるし、料理をするヤシロさんの背中は、プロ意識のようなものが感じられて、何か、……――良いなあ、なんて。ただ恋人から離れたくないだけじゃないの?なんて言われればまあ、そうだねえにゅふふ。
俺がでれでれと一人のろけている間も、ヤシロさんは小気味良く包丁を動かし続けていた。その背中は、普段のヤシロさんから考えられないくらいストイック。はあたまらん。抱き付きたい。

『ねーヤシロさーん』
『何ですか?蘇芳様』
『抱き付きたいんですが』
『ヤシロは今包丁を持っていますので、蘇芳様が危ないのでダメです』
『そうですか、残念です』

……となるのはもう目に見えているので、我慢我慢。蘇芳は我慢のできる子なので!


「……ッ」
――ふと、ヤシロさんが包丁を動かす手を止めた。え?聞こえたの?心の声聞こえたの?愛の力?
……と、思ったのだが、


「…………」

ヤシロさんは背後に俺がいるのを忘れたように、小さく息を吐いた。実際忘れていたのだろうと、思う。もし覚えていたなら、それはヤシロさんが俺に聞かせる訳もない溜め息だったから。
それは、人はこんなに深い溜め息を吐けるのかと思うほど、深淵を覗かせそうなほど深く、絶望と言う二文字を思い出させるほど重い。自嘲と達観と諦念をふんだんに盛り込んだそれを吐き出した唇に、ヤシロさんは自分の人差し指を咥える。

「……ヤシロさん?」
――……その背中が、大袈裟なほど震えた。慌てて振り返ったその顔には、いつものような優しい笑みは浮かんでいない。ただ、動揺。その指先から血が伝う。

「指、切ったんですか。見せてください」
俺は大股に歩み寄ると、その手首を掴んで傷口を覗き込んだ。切り傷はざっくり深く、中々治る様子もない。人を越えた治癒力を持つヤシロさんとは言え、このままでは良くないだろう。傷口から黴菌でも入ったら大変だ。
「絆創膏取ってきます」
「……ぁ」
「傷口を心臓より高くして、それで――……」
俺がヤシロさんの腕を上げさせようと引っ張ると、たらりと、傷口から大粒の血が滴った。その血が俺の指先に触れそうになった、―――瞬間。


「触らないで」


……暫く、状況が掴めなかった。目の前には、ヤシロさん。俺を弊倪する冷たい眼差し。床に尻餅を付いた俺。……ぁ、え?ヤシロさんのブラウスの袖が、血で赤く染まる。ふと肩に鈍い痛みを覚えて、俺は突き飛ばされたのだと気付いた。

「私の血に、触らないで下さい」
ヤシロさんは冷たく言い捨てると、それまで切っていた野菜を屑籠に押し込んだ。使っていた包丁とまな板すら、炊事場から除けてしまう。次いでヤシロさんがコンロの火を消したことで、台所に痛いほどの沈黙が落ちる。その沈黙を破るようにヤシロさんが、殊更に明るく言った。

「ヤシロの血は毒ですから。人の肉を食らった女の腹で、蠱毒のように育まれた異形。そんなものが蘇芳様や旦那様に触れたら、どうなるかわかりませんから」

俺は。

「思わず突き飛ばしてしまって、申し訳ありません。それと図々しいお願いなのですが、もし蘇芳様さえ宜しければ、これからお買い物に付き合って頂けませんか?夕食の材料だとかを、…買いたいのですが」
そう言ってヤシロさんは笑った。俺は、何も言えなかった。胸の中はヤシロさんの言葉を否定したい気持ちでいっぱいだったのに、


「蘇芳様!」

玄関に立っていた俺の前に、ヤシロさんの車が滑り込んでくる。助手席に乗り込んだ俺に、ヤシロさんが、今日は蘇芳様とおデートなので私服なのですと笑う。

血のこと?異形だと言ったこと?…それは、俺が軽々しく否定できる問題ではない。俺が否定しても、嘘臭いだけだ。ヤシロさんは俺の言葉に笑ってくれるだろう。…そんなふうに、ヤシロさんに気を使わせたくない。





「わっ!雪ですよ蘇芳様!きれいですね!」
「ですねえ。道理で寒い訳です」

買い物に案外時間を食って、スーパーから出た時にはもう日も落ちかけていた。日が短くなったことにも、冬なのだなあ、と実感する。よいしょ!ヤシロさんが包丁とまな板の包みを抱え直して、暗がりに足を踏み出す。軽い食材の包みをぶらさげた俺も、その後に続いた。

「蘇芳様は雪がお好きですか?」
「好きですよ。ヤシロさんは?」
「ヤシロは大好きです。にゅふふーかまくらで食べるお餅は格別なのです」
「楽しそうですね」
「楽しいですよー。積もったらやりましょうね」

そう言ってヤシロさんは俺の顔を覗き込んだ。にこっと笑いかけられれば、こちらも笑い返さずにはいられない。…まだ、気を使わせているな。胸がちくりと痛んだ。
「さあ、帰りましょう」
ヤシロさんが器用に片手で包みを抱えて、もう片方の手で助手席の扉を開いた。どうぞ。ヤシロさんが顎をしゃくる。

「……蘇芳様?」
いつまで経っても車に乗り込まない俺に、ヤシロさんがちょっと眉をしかめた。それすら俺に気を使った表情に見えて、辛い…
俺は包みから手を放した。がしゃん、と包みが自由落下する。驚いたように俺を見て、包みを拾うため身を屈めたヤシロさんの、その頬へ手を伸ばした。


「………毒だとか異形だとか、言わないでください。それがどうなのか俺が否定することはできませんけど、そんな。ヤシロさんがそう言うなら、俺はヤシロさんの血に触りません。だから、……俺の大好きなヤシロさんを、そんな虐めないでくださいよ。」

そしてもう一度、触れるだけの口付けをして。

「あと、蘇芳でいいんですよヤシロさん。デートでしょう?……なんて」
うわああ何を言ってるんだ俺は。急に恥ずかしくなって俺はヤシロさんから離れた。湯気が立ちそうなほど顔がぽかぽかする。

「さ、帰りましょう帰りましょう」
俺はヤシロさんの側を擦り抜けて車に乗り込、…もうとした。つまり、できなかったのだ。乗り込もうとする俺を引き留めたのは、もちろん、ヤシロさんだ。ぎゅう、とヤシロさんは後ろから俺を抱き締める。ヤシロさんの体は温かかった。その中に流れる、温かい血のことを思う。
「……痛いです、ヤシロさん」
返事の変わりとばかりに、ヤシロさんが俺を抱き締める力を強めた。首だけで振り返ると、ヤシロさんと目が合った。いつものヤシロさんとは違う目付き。その目付きを理解しきる前に、深く唇を奪われる。


「………ヤシロだよ、蘇芳」




作品名:貴方の肉は不味い 作家名:みざき