君に信頼を
一刻も早く脱出しなければならない。一人残り食い止めてくれているビクトールの行為を無駄にしないためにも、城外で見守ってくれている皆のためにも、ティエルは生きて帰らなければならないのだ。
もうすぐ──と角に差し掛かったとき、視界の端に過ぎったもの。一面の青と赤い、
「ばかやろう! 気を付けろ!」
「フリック!!」
叫ぶ声が重なる。
庇い立つフリックの脇腹から血が滴った。赤い、赤い、いのちの色。ティエルの右手が熱く脈動する。ひゅと知らず呼吸が詰まった。咄嗟に抑えた左手が、震える。また、食らうのかと、恐怖にかぶりを振った。
「おまえをこんなところで殺させる訳にはいかない……行け、ティエル」
背を向けたまま、フリックが静かにけれど強くそう告げる。
「おまえを置いては行けない!」
駄々子のようにかぶりを振って、震える声でティエルは叫んだ。
「皆がおまえを待ってる。行くんだ、ティエル」
『オデッサ』を構え最後の帝国兵と対峙する、その背中が霞む。それは今にも消えてしまいそうな灯火にも似て──ちがう、ただの涙だ。もう一度かぶりを振って、赤に染まる青を見据えた。
「嫌だ! おまえを置いては行けない!!」
「行け! ティエル! オデッサを悲しませるな!」
高く深い天色の眸が、ようやくティエルへと向けられた。そうして後ろの仲間へと目配せをする。抗う間もなく、気付いたときにはティエルはスタリオンに背負われていた。風を切り駆けるその両腕には、フッチとルックが担がれている。きゅうと歯を食いしばり、遠く小さくなってゆくフリックの背中へと振り返り叫んだ。
「死んだら許さない! 必ず帰ってこい、フリック!!」
伝わったのだろうか、力強く挙げられた拳が見えた。角を曲がりその姿が見えなくなると、ティエルは震えるくちびるをきつく結び負ぶわれた背に額付いて俯いた。ビクトールもフリックも、必ず帰ってくる──その揺るぎない信頼で、熱く脈動を続ける死神を抑えながら。
そうして。
人々の歓声を受けながら、ティエルは瓦礫と化した城をただただ視界に入れていた。「よぉ、待たせたな」そう言って二人が姿を見せるのを、ただただ待ち続けた。
右手の紋章は今は静かに眠っている。待ち望んだ魂を食らって満足したためなのか、逃した無念によるものなのか──ティエルには判らなかった。
拳を握り締め、俯く。その肩をふうわりと包むものがあった。
「坊ちゃん」
グレミオだ。やわらかな微笑みがじんわりとあたたかく沁みてゆく。目の奥が熱くて、誤魔化すようにまた、俯いた。
「風邪を引いてしまいます。戻りましょう。だいじょうぶ、ビクトールさんもフリックさんも──生きていらっしゃいますよ」
一時凌ぎの偽りの慰めなど要らない、そう返そうと上げた視線の先、けれど言葉を紡げなかった。グレミオが、本当に嬉しそうに笑っていたから。
「私はひと時の間、その紋章の中に居りました。だから、ね、判るんです。そこにお二方の魂が在るかどうか」
言いながら、グレミオはティエルの右手をそっと包み持った。一つ震え抗うそれを柔らかく縛め、愛おしそうに撫ぜる。
「大丈夫です。ね、グレミオを、ビクトールさんをフリックさんを──信じてください」
その言葉に目を瞠ったティエルに、グレミオがまた一つ微笑み頷く。
ゆうるりと数度瞬いたあと、ティエルは瞼を伏せ俯いた。
「──信頼していると言いながら……その実信用しきれていなかったんだね、僕は」
自嘲気味に呟いて、くちびるを小さく笑みの形に歪ませる。そうして勢い良く顔を上げ、噴き出した。
「ビクトールのことだ。どうせフリックを巻き込んでトンズラしたんだろう。僕をこんなに待たせるなんて良い度胸してる。……次に会うのが楽しみだ。ねぇ、グレミオ」
「ええ、坊ちゃん。本当に」
グレミオのマントに顔を埋めて、ティエルはそのまま気の済むまでくすくすと笑い続けた。
滲んだ涙は安堵によるものなんかじゃないと、言い訳するように。