カラレス
着々と想像を膨らませていく中で、ふと気付く。肝心の表情がうまく形成できない。笑っているのだろうか。それとも、眉一つ動かさぬ無表情で? 笑い声までは想像出来るのに、笑っている顔はぼんやりしていて分からない――ここまで考えて、そういえば、彼の表情とはいかなるものだったか、うまく思い出せない自分の存在を認めざるを得なくなった。特に不機嫌そうな顔をしている訳でもなく、かといって常ににやけている訳でもない。否、どちらかと言えば後者にあたるのだろうが、決め付けてしまうには本能が邪魔をした。あれが笑顔じゃないと感じるようになったのはいつからだったか。
すると答えを聞くまでの数秒間、まるで答えを聞いた後のように戸惑ってしまったのである。彼にどう映っているかは知らないが、今考えれば相当参った顔をしていたのだろう。不用意に投げ出した言葉の切れ端と心許ない回想が交じり合う、夢のような感覚を拾いつつ、すっかり浸かってしまった思考の海が一際大きな波を立てる。
「 」
彼が何か言っているが、思考にとらわれた耳は聞くことを拒んだ。表情は相変わらず、霞んでいて見えない。
あの日は雨が降っていた。彼が無表情だったのは数えてみてもそれひとつしか浮かばない。いたずらにビニール傘を回しながら何を思うか、曖昧な空間に視線を投げて。一瞬と呼べるものだったのか定かではないが、認識した途端にその光景は崩れ去ってしまっていた。何事もなかったかのような穏やかな雨音が、透明な傘を叩く。
「どうした」
短く響く声に湿った大気を吸い込んでいた。棘などないはずなのに、急速に体内へ取り込まれた空気が肺をちくりと刺す。「いや、」そうだ、あの時も同じことを聞くつもりだった。それが出来なかったのは、想定外の光景を映し出した眼球のせいだ。問いを投げてきたのは彼の方だが、素直に疑問を吐き出す気は萎えてしまっていた。そもそも見間違いだったかもしれないし、上手く整理もついていないから、何を言えば良いのかさえ分からない。ただ、そこにいた彼の、色のない横顔が妙に人間くさくて、ずっと端正だったことがぐるぐると回っている。速度を上げては落とし巡る、透明な傘のように。巻き戻る時間のように。ぐる、ぐる、ぐる。「あなたのそんな顔を初めて見た」いらない言葉さえふらりと出てくる。傘が止まった。
「戻そうか?」
「は」
言っている意味が分からず間抜けな声を漏らすと、ルシフェルはまたもやくすりと笑いを浮かべ、もう一度同じことを言った。何か返そうとして、再び湿気が体内へ充満していく。
(このひとは)
巻き戻す気なんかないのだ。今まで一度も聞かれることのなかった、時間に関する質問。それをわざわざ口に出した割に、傘を持たぬ片手の指はぴくりとも動かない。相変わらず意図は読めないものの、何となく彼の思惑通りにいくことが癪で、ぶんぶんと首を振った。何がそんなに面白いのか三度軽い笑い声を残し、彼はそうか、と答える。だから結局自分はこの話を覚えているし、疑問を持っていたことも、それを言おうとしていたことも鮮明に胸へしまっている。いつもへらへら笑っていて何を考えているか分からないと、想像で固めてしまっていた過去も、変わってしまった今も。
自然とこぼれていた。
「戻したかったのか」
返事の代わりに、傘がくるりと一回転してみせた。
大きな音がしたので、肩を揺らして我に返った。見慣れた傘が花開く。何の変哲もないそれは、彼が持っているという事実だけで何か特別なものと変わるように思えた。少なくとも、自分には。溢れそうな感嘆を押し殺しつつ、見上げた空は、晴れている。
「やっぱり話を聞かないな」
「……あ」展開について行けずに情けない声を溢しながら視線を落とした先、無遠慮に突き出された右手と、長く骨張った男の指。擦れて弾けたような、高音。
「試してみようか。時間旅行も悪くないさ」
そうして、軽いめまいの中で、鳥の鳴き声が雨音に変わっていくのを、ルシフェルはじっと観察していた。負けの決まった賭けだが、たまにはこんな戯れも悪くない。