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「――タクト?」
 耳に当てた受話器越しに穏やかな声が流れ込んできてタクトを揺らす。普段の生活では遭遇することのない距離から、直に鼓膜に響いてくる声にびくりと身じろぐ。弾みで肩に挟んでいた受話器がずるりと滑り落ちた。
「う、わ……っ!」
「タクト?」
 焦って掴んだ先から心配そうな声が漏れてくる。
「どうかしたのか?」
「だだ大丈夫ダイジョーブ。どうもしてない」
 支え直した受話器にそう返すとタクトは相手には気付かれないように小さく息を吸った。
「いや、なんか寮長が呼び出すから家族の一大事!?とか思ってたらスガタからだったからさ。びっくりしてデンワ落っことしそうになっちゃった」
 頬を掻きながらの言い訳に「君らしい元気さだな」とくつくつ笑う声。笑い上戸なスガタのいつもどおりの声に安心しつつ、タクトは既に自室に戻っているだろう寮長を思い浮かべて表情を少しだけ苦くした。


「新入生クンは携帯電話とか持ってないのかなぁ?」
 媚を含んだ声が背後から投げ掛けられたのは、折りしもタクトが露天風呂に繋がる階段を上っていた時だ。タオルと入浴道具を持った上半身をひねり見おろしてみれば階下には幼い顔立ちにアンバランスな色香を纏わせた少女が立っていた。新入生歓迎会で見、そして先日露天風呂で遭遇した上級生――寮長だ。
「持ってないですけど……えと、寮長? もう入浴時間切り替わってるしこのフロアは女子禁制なのでは?」
「私はトクベツ。それにほら…この前は途中だったし、折角だから続き――しちゃおうかなって」
 ピンクに色づいたリップが弧を描いて階段一段分、距離が詰まる。この前。続き。それらの言葉から想起されるのはひとつしかない。
 ガラス抜きのキス。タオル一枚の少女の姿や近づく唇の誘惑を一気に思い出してしまって、一気に顔に血が上る。
「えっ、あっあの…寮ちょ…ッ!」
 逃げるのも失礼だろうかでも…とタクトは混乱しながら詰められる距離につい怯えた声を漏らす。と、残り三段ほどを残して少女の足がぴたりと止められた。
「ひっどいなぁ、せっかく女の子の方からガラス抜きでって誘ってるのに。でも仕方ないか。キミにはラブコールを寄越してくれる相手も居るみたいだし」
 うろたえるタクトの様子に満足したのか、寮長は笑いながら先程とは雰囲気を一転させてタクトを手招いた。
「ラブコール…?」
「そっ。寮の共通電話にね、キミ宛にデンワだよ」
 早く出てあげないと怒られちゃっても知らないんだから。
 タクトを揶揄った張本人はそう告げるとあっさりと踵を返していった。
「……一体、なにごと?」
 あっさりと放り出された格好のタクトは瞬きをして首を傾げる。呼びに来ただけにしては心臓に悪い人だよなぁ…と、紅潮した頬に手を添えながら半ばまで来ていた階段を逆に下りはじめた。


「でもまさかスガタからのラブコールとは思わなかった」
 電話に出るまでの出来事を思い出しながらぽろっと零したタクトに、受話口の向こうから「ん?」と少し驚いた声が返ってきて慌てる。
「あ、ちっ違う、変な意味じゃなくって、」
「よく、分かったね」
「――――へ?」
「僕は一度君とこうしてゆっくり話がしてみたかったんだ。だからラブコールという表現もあながち間違いじゃないのかもしれない」
「いや、だから…」
 くすりと笑う気配。それは動揺して意味もなく腕を振り回していたタクトを見透かしていたかのようで少し面白くない。
 揶揄われているのかと唇を尖らせるタクトの耳に、次いで僅かに色を変えた声が届く。
「この島と寮の生活にはもう、慣れた?」
「え? ああうん」
「それは良かった。ここは本土と比べるとあまりに異質だから。ワコも君の事を何かと気にしてるみたいだしね」
 最後の科白がどうしてか気に食わなかった。たぷりと、黒い水が胃に溜まっているみたいで、むかむかする。
「スガタは、」
 スガタは彼女の事ばかり気にしてるみたいだけどね。浮かぶまま口にしかけた言葉を飲み込む。それを言うのは酷く危険な気がする。
 ぷつりと途切れた言葉を追求するでもなく、スガタは更に話を変える。
「そういえば話したことなかったよね。ワコと僕が初めて君を見つけた夜のこと」
 ワコが君を助けた時のこと。
 タクトの心境など知る由もないスガタの声は、囁くでもなく静かに紡がれて、もやもやを抱えたこんな時ですら耳に心地良くて――夜の海に似ている、と思う。タクトをこの島に連れてきた海に。
「水際で倒れている君と、君を懸命に助けているワコを見ていて思ったんだ。小さい頃に読んだ絵本のようだって。君はまるで難破した船から落ちて隣国の姫に助けられた王子様みたいだった」
「その姫には許婚がいるんだから、王子様振られちゃうよ?」
「その絵本では許婚なんて居ないから問題ない」
「ならスガタは?」
 その絵本では何になるんだと水を向ける。
「そうだね…」
 答えに悩んでというよりは答えを告げることを躊躇うように僅かの間を置いて受話器から流れてきた声は。
「僕は…せめて君を海中から陸地まで運ぶ役目でも担えればよかったのに」
「……人魚姫?」
 タクトの脳裏にやけにクリアな絵が浮かぶ。凛とした清楚なイメージは不思議なくらい違和感なくスガタに当て嵌まる気がする。けれど。
「駄目だよ、それじゃあ最後は泡になっちゃうだろ」
 悲恋の代名詞ともいえる作品だ。幼心に理不尽だと感じて以来、タクトはあまりあの話が好きになれない。
「それでも、だよ。――ねえ、タクト」
 電話越しに響く声。波にたゆたうような、低く穏やかな。
「僕の言ってる意味、分かるかな?」
 夜の海のようにタクトを包み込み……飲み込むような。
「僕はね、あの時ワコじゃなくて僕が君を救えたなら良かったのにって思っているんだよ」
 同じ声で、穏やかさで。なのに決定的に異なる雰囲気がじわりと通話を浸食していった。重たい気分を抱えていた身体の中心で大きく鼓動が跳ねる。
「な、に言って……僕は君たち二人に助けられたと思ってるけど」
「それも嬉しいけど、でも二人じゃ嫌なんだ」
 受話器を握り締めた手のひらがじっとり汗ばむ。混乱し始めた頭で、この電話は一体なんだろうとタクトは改めて考えた。寮長に呼ばれて、出てみたらスガタで――。
「最初にした質問をもう一度してもいいかな。ツナシ・タクト君。君は、人工呼吸はキスに含まれると思うかい?」
「人工、呼吸は……救命行動だから」
「ガラス越しのキスは有りな人?」
「どちらかといえば、ナシだけど……スガタは?」
「どう思う?」
 それでは答えになっていない。
「その返事ズルいって、」
「最後の質問。受話器越しのキスは、有りな人?」
「え?」



「言っただろう、ラブコールだって。じゃあ、また明日学校で。おやすみタクト」
 ツー、と回線音が響く受話器をごとりと床に落としてへたり込む。きっと真っ赤になって熱を持っているだろう耳は触ってみると酷く熱い。耳だけでなく顔も。
 ごち、と壁に頭を預けたままじっとしていると外の廊下を近づいてくる足音に気付いた。が、相手を窺う気も体裁を取り繕う気力も既にない。
作品名:Linkage 作家名:群青