【大人組】58診後日談
千歳ちゃんから色々聞いた
鈍ちゃんがすんげえ怒ってるから
覚悟しとけ
生徒と町の人々を巻き込んだ病魔不足騒動も無事治まり、人心地ついたその日の夕暮れ、経一からの簡潔なメールを目にして逸人は思わず瞼を閉じた。覚悟を決める間もなく、けたたましい着信音が鳴り出す。画面を見ればはっきりと鈍、の文字があった。
俎板の鯉とはこういうことか。
数回深呼吸した後、思い切って通話ボタンを押した。もしもし、と答えると、
「…逸人」
聴こえて来た鈍声は怒声でも涙声でもなく、実に艶やかなやさしい声で――それはつまり、彼女がいま最高に怒っている、ということだった。
「随分大騒ぎだったそうじゃないの」
「…ああ、や、でも、もう解決したから、大丈夫…」
「そう、よかったわね」
「う、うん…」
「ねえ、わたしが前に言ったこと、あなたあれからちょっとでも真面目に考えた?」
そう、気をつけなければ命を落としかねないと、つい数ヶ月前に彼女からきつく言われたばかりであった。いきなり痛いところを突かれて逸人は言葉に詰まる。
「……もちろん、考えなかったわけじゃないよ」
「あら、そう?」
「……その、後先考えずに無茶な戦いをするのは、控えようと」
「それで今度は病魔不足」
「…………」
「たいへんねえ、あなた押しても引いても自滅しちゃうのね。そういうのって」
ああ余計なことを言うべきではなかった、と逸人は今更になって思う。頭と胃がキリキリ痛んだ。
「あさはかよね」
返す言葉もございません、とばかりに逸人は沈黙した。それがかえって苛立ちに拍車をかけたのだろうか、鈍の声音が少しばかり重さを増した。
「それに、あなた、先生や生徒さんたちに言われるまで、自分でおかしいって気付かなかったそうじゃない」
「………」
「おやすみの日で、ひとりで、家から出ていけないような状態になったら、どうするつもりだったの」
「………今度から、気をつけるように…」
「そうね、気をつけないと死んじゃうものね」
背中に嫌な汗がじっとりと滲むのを逸人は感じていた。顔が余計にひび割れてきているんじゃないだろうか、いや、むしろ逆か?
鈍ちゃんすげえ心配してたんだぞー、と、電話の向こうから経一の声が聞こえた。多分すぐ後ろにいるのだろう。怖えけど、本気で怒ってんじゃなくて、お前のためをだな…と実に明快な解説が、しかし、
「まだ話は終わってません」
鈍の一声でぴしゃりと中断される。すんません、と力ない謝罪がかすかに聞こえた。
「で?気をつける?」
「……気をつけます、ちゃんと、口先だけじゃないようにします」
「本当に?」
「本当に。今度こそ懲りた、もう、皆に余計な心配かけないようにするから」
「……」
才崎先生から叱られるのはしょっちゅうだったが、それでも逸人は説教を受けることにいまだに慣れない。反省の念を示すというのはなんと難しいことだろうと、叱咤される度に思ってばかりだった――そのせいで生徒にもつい甘くなってしまうのだが。今回ばかりは何を言われても甘んじて受けなければならないと、心から思ってはいたが、きちんと伝わっているものだろうか。この後二度三度怒鳴られる程度では済まないかもしれないが、仕方ない――
逸人は腹を決めて鈍の反応を待った。予想に反して彼女は静かだった。
「逸人」
長い沈黙の後、ひどく穏やかな声が返ってくる。
「うん」
「もし、またどうしようもなくなったら、うちへ来なさい」
逸人の背筋がぎくり、と強張る。今度また弱るようなことがあれば、有無を言わさず病魔を取り上げると、そういうことだろうか。
「待ってくれ、いくらなんでもそれは――」
「そうじゃなくて!」
ああ勘の悪い男ね、と鈍が溜息交じりに洩らす。
「わたしたちが何のためにわざわざ病魔を貯め込んでると思ってるの」
(――あ)
そこで逸人はようやく気付いた。
貯め込んでいる、のは、単に処分できないからなのだと思っていた。自分に処理を頼むのも癪だからそうしているのだと。じっさい彼らの手ではどうやっても処分が不可能なのかもしれなかった、でも、他にも目的があったとしたら?
――もしかしたら彼らにとっては、今回のことも、想定外ではなかったのかもしれない。
「……ごめん」
「何よ」
「ごめん。ごめんよ」
ごめん、と繰り返す逸人に、鈍はもう一度大きな溜息をついて、
「馬鹿!」
スピーカーが唸るほどの大きな怒声が逸人の耳を突いた。バーカ、と遠くから経一の声もついて来た。
頭がぐらぐらするような音圧に、涙目になりながら、逸人がひとこと返す。
「ありがとう」
「……それじゃ、もう用事済んだから、切るわよ」
「……うん、また」
また、の返事はなく、ちょっ俺も出たい出たい出た、と経一のごねる声がかすかに聞こえて通話は切れた。
いつのまにか外はもう暗くなっている。放課後の保健室で一人、逸人は携帯電話を握り締め、通話が終わったばかりの画面をいつまでも閉じることができずに、じっと眺めていた。
ありがとう、誰にともなく微かに呟いた声が、白い小さな部屋をしばし漂って消えた。
職員玄関の手前で三途川は、来客用のスリッパをせっせと整理する細長い人影を見つける。逸人だった。どうしたこんな遅くまで、まだ帰っていなかったのか、と声を掛けると、
「今日は本当にたくさんの方に来て頂いたから……それこそ、スリッパが足りなくなるくらいだったって言うんです。よかったら僕にもう何足か寄付させていただきたいんですけど……とりあえず、ちゃんと片付けて綺麗にしておこうと思って」
また来て頂ける時のために。
振り返って笑った逸人に、三途川はうんうんと満足げに頷いて言った。
いい顔をしているじゃないか。
作品名:【大人組】58診後日談 作家名:中町