雨音は陰惨
じめじめした陰気な日々がここ数日続いていた。こうも天気が悪い日が続くと、人々の気も沈むのか、いつもは賑やかな瀞霊廷も今は活気がなく静まり返っている。
人気のない廊下を一人歩きながら、檜佐木は必死に床板の板目に目をこらしていた。そうしていないと、目が眩むのだ。いち、にい、さん、しい。口には出さず、心の中で無心に板目を数え続ける。屋根を伝い庇から落ちる雨粒の音が煩わしい。早くやめばいいのに。
辺りには人影がなく、回廊は薄暗い。雨音に吸われて、自分の足音さえ聞こえなかった。
九番隊の隊舎まであと少し。檜佐木は小さく息をついた。なぜ書類を運んで戻るだけでこんなにも消耗するのだろう。体がずっしりと、鉛のように重い。目の眩みと気圧の低さで、こめかみに偏頭痛がきていた。くそ、雨のせいだ。普段は風流にさえ思う長雨が、今は疎ましかった。
何度となく繰り返し板目を数えているうちに、目指す自分の執務室の前まで来ていた。取っ手に手をかけ、そっと息を吐く。両手足が冷え込んですっかり固まっている。重い重い扉を、ことさらゆっくりと開けた。
部屋の中は暗く、影が差し込んでいた。そしてその暗がりから、一本の白い手が這い出ていた。
目を凝らすでもなく、檜佐木はただじっとそれを見つめた。白い手がずるりと、床をすべる。暗闇から少しずつ姿を現すそれが、血にまみれた顔を入り口に佇む檜佐木に向けた。
ひさぎくん---
蟹沢。言葉にはせずに、檜佐木はそれの名を呼んだ。その顔も声も、なつかしい真央霊術院の同級生のものだ。ずるり。血で染まった制服の袖が、床を這う。
--ひさぎくん、いたいよ
白い腕が、静かに伸ばされる。助けを求めて宙を掻く。彼女の胴体はがらんどうだった。薄い肉でかろうじて繋がれた下半身が、なすすべなく引き摺られる。
彼女は涙と血に濡れた両目で、檜佐木を見上げていた。力なく這う腕が、ゆっくりと、檜佐木の足元に近づいてくる。
その様を檜佐木は無表情に見下ろしていた。頭の中を、彼女の声が割鐘のように反響する。頭痛がさっきにもまして酷くなる。雨音が遠い。
いたいよ、たすけて---
暗闇の中から伸ばされた白い手が、檜佐木の足首を掴んだ。強く、五つの指が皮膚に食い込む。
彼女は檜佐木を見上げ、くり返した。たすけて。その声は耳鳴りのように頭の中を蹂躙する。たすけて。たすけて。たすけて。氷ほどに冷たい手がよりいっそう強く足首を掴む。檜佐木はただ見つめていた。血にまみれた彼女の顔を。ずるり。黒い血を引いて、その体が這う。彼女の顔が、悲痛に歪む。たすけて。
「先輩」
突然、支配していた耳鳴りが遠のいて、クリアな呼び声が飛び込んできた。
ゆっくりと目をやると、廊下に赤い髪の男が立っていた。黒い死覇装、見慣れた刺青。
「なにしてんですか」
「・・・・・・いや、」
答える声が掠れる。気がつけば、体がずいぶん冷たい。まるで長時間雨に打たれていたようだ。
耳鳴りは遠のいたが頭痛は相変わらず酷かった。冷えた指先で静かにこめかみをおさえる。足首を掴む手の感触はいつのまにか消えていた。だが檜佐木は、部屋の中に視線を戻せなかった。ただ暗い視界に浮かぶ燃えるような赤を見ていた。
阿散井はずかずかと無遠慮に近づきながら、陰気な雨に似合わぬ明るい声を上げた。
「晩飯いきましょーよ、新しいラーメン屋ができたんで」
仕事はさっきの書類で全部上がっていた。ああ、と返事をしてゆっくり扉を閉める。阿散井のほうに一歩足を踏み出すと、ずるり、なにかを引き摺るような重い感触。一段と頭痛が酷くなった。遠かった耳鳴りが戻ってくる気配がして、檜佐木は思わず瞠目した。
「二人とも、もう上がり?」
「あ、お疲れ様っす」
背後からかかった声は、振り向かずともわかる、松本乱菊だった。
「お疲れ様。どっか食べに行くの?」
「うん、ラーメン屋」
嬉しそうに応対する阿散井にくらべ、松本の声はやや堅いように思えた。檜佐木が振り向くと、少し離れて立つ松本と、まともに視線が合う。松本の双眸が、しっかりと檜佐木を捕らえ、そしてその足元に向けられた。
「修兵、だめよ。それは連れてっちゃだめ」
強い口調だった。檜佐木はさぁっと全身から血の気が引くのを感じた。足はまだ、鉛のように重い。手足がひどく冷たかった。
「ここにおいていきなさい」
松本が静かにそう言うと、檜佐木は無意識に小さく頷いていた。
途端、ずっしりと圧し掛かっていた体の重みが、ふと軽くなった。引き摺ってた暗い影が消えたように思った。
松本はもう一度檜佐木に目をやり、先ほどまでの真剣な表情を崩しやわらかく笑った。そして踵を返し、片手を振りながら歩いていった。
去りゆく後ろ姿を見送ってから、檜佐木が振り向くと、阿散井が呆然とした顔で突っ立っている。思わず檜佐木は小さな笑みを浮かべた。
「よし、いこうぜ」
檜佐木がぽんと肩を叩き歩き出すと、阿散井は「なんだったんだあの人・・・」と呟きながらも、檜佐木の後を追った。回廊にはただ静かに、雨音だけが響いている。