夏模様
夜中にふと目を覚ました俺は、隣に寝ているはずの男の姿がないことに気付いた。
アリスのために大家から借りた布団、上掛けがめくれている。
皺になったシーツに手を当てる。
トイレだろうか。狭い室内に姿が見えないので多分そうなのだとは思うが・・。
しかし、何故か妙に気になった。
それは、閉め忘れたカーテンのせいで差し込む、月の光のせいだったのかもしれない。
少し待っても戻ってこないアリス。俺は起き上がる。
「何処いったんだ?」
がしがしと頭をかきながら目覚まし時計を引寄せる。
光るディスプレイに表示された文字は、午前の2時半。
まさか、この時間に大阪に帰ったこともあるまいと、部屋を見渡すと、彼の赤いディバックが目に入った。
やはり、いるらしい。
だが、何処に行った・・・?
起き上がり、パンツにTシャツというなんとも無様な格好だった俺は、脱ぎ散らしたジーパンを履き部屋を出た。
流石に下宿の連中も、皆、寝ていると見えて、廊下はひっそりとしている。
「アリス・・・?」
小さく呼びかけてみるが返事はない。
ぎしぎしと音を立てる年季の入った廊下を、なるべく静かに歩き、共同のトイレにも顔を出すが、そこにも姿はない。
まさかとは思うが・・・と、浴場を覗くが、そこは照明も落ちヒッソリとしている。
この下宿の主人を起こさぬように慎重に、1階の廊下を歩き、玄関へと向かう。
誰かの置きっぱなしのサンダル・・・から、共用の草履へといつしか名前を変えた履物を履き、玄関から庭へと出た。
左を見、右を見たとき、俺は目当ての人物を見つけた。
洗濯物を干す、物干し竿のあたりでしゃがみこんでいる。
何をしているのかと、目を細めると、彼は手を伸ばして猫を撫でていた。
猫といっても、この下宿にいる猫ではない。
真っ黒なスレンダーな猫だ。
月に照らされた彼は、独特の優しげな顔をして猫を撫でている。
そして、なにやらひそひそと猫に内緒話のように話しかけている。
その姿が、とても楽しそうで、俺はなんだか仲間はずれにされた気分になった。
猫が気持ちよさそうに、長い尾を上下させる。
おそらく野良だとは思うが、やたらと親しげに見えて、それにも俺は不思議と傷ついた。
じゃりじゃりと・・・わざと足音を立てて彼に近づく。
聞き耳を立てるようなことをしたくなかったというのもあるが、どちらかというと、早く気付いて欲しかったように思う。
だが、彼はなかなかこちらには気付いてくれず、ほんのそこまで近づいたときに、ようやく顔を上げた。
俺をみて、少し驚いたような顔をしたあと、にっこりと微笑む。そして
「本物がきてしもうた」
「本物・・・?」
「せや。この猫、君に似てない?」
言われて、彼の手元を見ると、おなかも手先も全てが真っ黒な猫。
仏頂面としか言いようのない不敵な顔、そして金色の目。
「そうか?」
俺が言うと、アリスはクスリと鼻で笑って、猫の顎の下を指でくすぐった。
猫は、顔に似合わぬ可愛らしい声で一声鳴くと、気持ちよさそうに目を細める。
アリスの指に押されるように、コロリと腹を見せて転がった猫を見て、俺は無性に腹が立った。
「部屋、戻るぞ」
出した俺の言葉は、自分で思っているよりも硬く、アリスは驚いたように俺を見上げた。
そして、くすりとまた笑う。
「何?君、拗ねてんの?」
「拗ねる?」
「うん。そんなかんじや。なー?」
同意を猫に求めるアリス。偶然だろうが、猫はそれに応えるように一声ないた。
甘えるような鳴き声。苛立ちを猫にぶつけるように睨むと、猫は俺の気配を感じ取ったのか、ひょいと身体を起こし、ステップを踏むようにして何処かへ去っていった。
「あー・・・いってもうた」
残念そうにアリスは座ったままその猫を見送る。
猫が去ったというのに、何故か苛立ちは収まらない。
本来、猫は人間よりも好きな俺だというのに妙な話だ。
「君、何、不機嫌になっとるん?」
アリスにつられて、猫の行く先を見ていた俺は、アリスがこちらを見ているのに気付いていなかった。
「眉間に皺が寄っとるで」
っと、指で自分の眉間を指し、笑うアリスに俺は一つ息をついた。
「何でもねぇよ。それより早く部屋もどるぞ」
「うん。そやな」
言って、アリスはヨッという掛け声と共に腰を上げた。
立ち上がり、俺を見たアリスは何が愉快なのかさっきからにこにこ笑いをやめない。
そして、俺に指をさした。
「なんだ?」
アリスは俺の問いには返さずに、指をぐっと近づけ、そして俺の眉間に立てた。
「みーけーんーのしわー」
言って、ケラケラ心底楽しそうに笑う。
「なんなんだよ。」
俺の言葉に、アリスは笑いを納めすまして言う。
「君こそ・・・や。なーに不機嫌になっとるん?」
「別に不機嫌になんてなってねぇよ」
本当は、猫とご機嫌で遊んでいるアリスを見てから、機嫌は下がりっぱなしなのだが。
アリスは、俺の顔をじっと見た後、また楽しそうに微笑む。
「あれやろ。君、俺が、あの猫火村に何いうたか気になっとるんやろ」
「何が猫火村だよ」
「やってそっくりやったし」
「にてねぇよ」
「ほら、やっぱり不機嫌や」
言って笑うアリスに、俺は思わず舌打ちする。
クスリと息を吐き、先に立って歩き出したアリス。
Tシャツに短パンという姿が月明かりに照らしだされている。
月明かりのせいか、彼の体全体の輪郭が淡い。
俺は、眩しさを感じて目を細める。
「火村」
はっとする。気付くと下宿の玄関の前でアリスがこっちを見ていた。
顔にあるのは、あの、謎の微笑み。
胸が苦しくなるような・・・微笑み。
一体なんなんだ?俺は、俺の心の動きについていけない。
「いつか教えたる」
「何?」
「さっきのは予行練習やったんや」
「予行練習?」
「そ。」
言って、アリスはまたにっこりと微笑む。
俺と、アリスの間を、一陣の風が通り過ぎ、遠くで猫が小さく鳴いた。